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英国からの依頼

今回は番外編とし海外案件「地主と不動産鑑定士物語」という短編小説をご用意しました。

不動産鑑定の実務にまつわる内幕物として、なにかの参考になれば幸いです。

≪記事を読むのに約10分かかります≫

【目次】

プロローグ

英国からの依頼

英国とのやりとり

現地調査

不動産鑑定士と宅地建物取引業者

証言とディスカッション

エピローグ

■プロローグ

不動産鑑定士・黒田の朝一番の仕事は、メールのチェックから始まる。最初の作業は、メールボックスの中からジャンクメールを削除することである。かつてジャンクメールを判定するセキュリティの強度を上げたら、必要なメールまでジャンクメール扱いにしてしまったこともあったので、今ではフィルターの強度をやや下げている。そのせいか、どうしても、幾つかのジャンクメールがメールボックスに届いてしまう。必要なメールがジャンク扱いされるくらいならと、毎朝、ジャンクメールの削除から仕事が始まることを許容している。

英文のメールがいくつかあった。これはサングラスの宣伝か。俺のメールアドレスをどこから拾ったんだか…、黒田は英文の宣伝メールを削除した。外国人からの依頼や問合せも少なくない昨今、黒田も日頃から英語力は鍛えていた。近頃は翻訳ツールの精度も高くなっているが、ビジネスで伝達ミスなどが生ずるリスクを避ける為には、自らの英語力を上げるに越したことはないからだ。

その次も英文のメールだった。件名には「Request Appraisal Report」、文頭には「To Kuroda Appraisal Office」とある。自動送信されたジャンクメールではない。文頭にメールアドレスなどでなく、きちんと固有名詞で宛名が書いてあるメールはジャンクメールである可能性が極めて低い。ざっと目を通すと、英国の弁護士からで、飛騨高山にあるゲストハウスの鑑定を依頼したいらしい。仕事の依頼だな。事務所内で共有するために後でちゃんと翻訳しよう。黒田は、そのメールを後回しにし、ジャンクメールを処理した後、他のメールには必要に応じて返信するなど、メールへの対応をひととおり終えた。

黒田は、英国の弁護士からのメールを、念の為、ネット上の翻訳ツールを使って翻訳してみた。翻訳ツールでは日本語として熟れない部分もある。熟れない部分を文節ごとに翻訳してみて、納得できる日本文にした。自分で訳してもよいのだが、忙しいときにはツールを利用する。自分で全部翻訳する必要がないので、外国語のメールへの対応もずいぶんと楽になったものだ。

■英国からの依頼

メールの主は英国の弁護士であった。英国には、barristerとsolicitorと2種類の弁護士がある。前者は法廷弁護士、後者は事務弁護士などと訳される。法廷で弁論を行うのはbarrister(バリスター)であるが、依頼人に直接対応するのはsolicitor(ソリシター)である。今回のメールの送り主はsolicitorである。その依頼人は、メアリー・エバンス(Mary Evans)だという。

黒田が翻訳した内容を要約すると、以下のとおりだった。

メアリーとゴードンのエバンス夫妻の離婚が英国の家庭裁判所で争われている。ちなみに、英国には、日本のような届出をするだけで離婚できる協議離婚はなく、離婚には必ず家庭裁判所(Family Court)の関与が必要となる。つまり、裁判離婚しかないのである。そして、その離婚裁判の中で財産分与について争われているというのだ。

メアリーとゴードンは、日本の飛騨高山で外国人向けのゲストハウスを経営していた。飛騨高山は、温泉やスキー場があり、さらに世界遺産にも登録されている白川郷も近く、外国人にも人気の観光スポットだ。彼女らは、資金を出し合いゲストハウスの土地建物を購入して、これを経営、相応の収益を上げていたという。しかし、経営の方針などを巡って意見の対立もあり、夫婦仲は悪くなり、昨年末にメアリーは英国へ帰国した。そして、彼の地で、離婚訴訟を提起するに至ったという。

今回の依頼に関わる問題は財産分与である。財産分与とは、離婚に際して夫婦の財産を分けることだ。このケースでは、ゲストハウスをどう分けるかが問題となっている。というのも、メアリーは既に英国に帰国しているが、ゴードンは、飛騨高山でそのゲストハウスを今でも経営していて、今後も経営し続けたいというのだ。建物はゴードンの単独名義であり、実際に費用を負担したのも当人であるとのことだった。しかし、その敷地はメアリーとゴードンの2人の共有名義となっていた、持分は各2分の1ずつ。実際に費用も折半したという。ゴードンがゲストハウスの経営を継続するというのであれば、メアリーの持分2分の1に相当する額をゴードンは財産分与としてメアリーに支払わねばならない。元来、その敷地の2分の1がメアリーの所有である以上、ごく当たり前のことだ。

そこで、これらの物件の価格について鑑定して欲しいというのだ。ちなみに、黒田のところに依頼したのは、黒田鑑定事務所の英語版のWEBサイトを見たからだそうだ。日頃から英語力を高めてきた甲斐があったというものだ。

 

黒田は、引き受けることを前提ですぐに返事を書いた。もっとも、まずは日本語でだが。短い文章を使った解り易い日本語で書いてから、自動翻訳を使い英文にし、それを推敲する。むろん最初から英文で書くこともできるが、ある程度の長文となるときは慎重を期しているのだ。

まずは、どのような精度の鑑定を希望するかを訊ねた。そちらから土地・建物に関する情報や資料を送って貰い、その範囲で、現地に行くこと無く行う簡易査定か、それとも、現地へ調査に行った上で、より詳細なレポートを作成する本格的な鑑定かである。無論、現地調査に行くとなれば、飛騨高山ともなれば東京からは概ね5時間弱、とても日帰りでは無理だ。そのため、交通費等も含め、現地調査だけでもそれ相応の費用がかかることとなる。具体的な費用の概算を提示した上で、どちらにするのかを問い合わせた。

東京から行くことになれば、交通費などの費用がかかることになるので、相手方としては、地元、名古屋や岐阜あたりの不動産鑑定士を選択する方がよいようにも思える。だが、そもそも東京にある自分の事務所に鑑定を依頼してきたのには、それなりの事情があるのだろう。黒田は、そんな気がしていた。

■英国とのやりとり

弁護士からの返事は翌日届いた。それには、物件の資料と共に、さらに詳しい事情が記されていた。

そのゲストハウスは築8年で3階建。客室は6室。富裕層向けということもあって、なかなか内装もしっかりしており、キッチンも整った長期滞在も可能な部屋も用意されていた。夫婦で経営していた時の収支表も添えられていた。立地の良さから、相応の収益を上げているようだ。ゴードンが経営を続けたいと考えるのももっともなことだ。

しかし、肝心なのはそこではない。ゴードンは、この土地を仲介した地元の不動産会社から土地建物についての査定を既に得ているというのだ。その不動産会社は名古屋に本拠を置いているが、外国人の経営で、愛知県及び岐阜県内の観光地で外国人向けに物件を斡旋しているという。メアリーとゴードンは、この不動産会社から紹介されて、飛騨高山の土地を購入し、建物を建てゲストハウスを始めた。東京所在の黒田に依頼したのは、名古屋に本拠を置く不動産会社との接点が全くない鑑定事務所に依頼したかったからなのかもしれない。

この不動産会社による査定は、土地が4100万円、建物が2800万円の合計6900万円だという。まずは、送った資料から簡易査定を行い、この査定価格を概ね2割以上高い鑑定価格が見込めるのであれば、現地調査をした上での詳細な鑑定評価が欲しいとのことだった。

4100万円の2割増しなら、4920万円。依頼人としては、土地の価格の半分を受け取るつもりであるから約400万円上乗せされることになる。そうであれば、鑑定にある程度の費用がかかったとしても、不動産会社の査定価格に対して、より詳細な鑑定書をぶつける意味があるということなのだろう。

さらに、収益価格を考慮した鑑定をして欲しいとのリクエストが書かれていた。ゲストハウスという性質上、それは当然である。

黒田は、今週中に簡易査定の結果を送ると返信した。

 

それから2日後、黒田は早くも簡易査定の結果を英国の弁護士へ送った。結果は、土地は5000万円を優に超える5400万円、建物は3100万円という査定であった。合計で8500万円である。所在地が、高山市の郊外という好立地であることが幸いした。今後の収益も望める。飛騨高山を含む飛騨地方は、今では岐阜県に含まれるが、かつては飛騨国として独立した地方行政区分だった。高山市は、その中心地。江戸時代の城下町の街並みをよく残しており、歴史情緒の溢れる景観から、ミシュランの旅行ガイドでも必見の観光地として3つ星を獲得している。

黒田としては、調べてみて改めて感じたのだが、地元の不動産会社が査定したという土地建物合計額の合計6900万円はやや廉価に過ぎるのではないかという印象を持った。その疑問も弁護士へのメールに付記しておいた。

翌日には、英国から返信があった。簡易査定の結果には満足したようで、より詳細な現地調査を伴う鑑定評価を依頼された。ゴードン側の弁護士を通じて、現地のゴードンが案内をしてくれるという。日本語もある程度はできるとのことだ。ただ、裁判の日程との関係もあり、出来るだけ急いで欲しいともあった。ただ、ゴードンには既に日本人のパートナーがいるため、彼女との接触はできるだけ避けて欲しい旨が添えられていた。メアリーのことを悪く言うであろうから、先入観を持たれたくないと弁護士は正直に書いていた。相手方の査定が低いのは、間違いなく名古屋の不動産会社はゴードンに肩入れしているからだろうとのことであった。

黒田としては、まだ飛騨高山には行ったことはなかったので、この機会に軽く観光も楽しみたいとも考えたが、鑑定報告書は英文に翻訳しなければならないことを考えると、どうもその余裕はなさそうだ。すぐに高山のゴードンに連絡をとった。黒田としては、他の日程との関係上、できれば土日を入れた日程で出張したかったが、土日はゲストハウスも満室で忙しいので避けて欲しいとのことで、仕方なく平日に現地調査に行くこととした。

■現地調査

飛騨の高山市までは、東京から新幹線で名古屋まで約1時間40分、そして名古屋から富山行の特急飛騨で2時間30分、なかなかの道のりである。昼の11時過ぎに、黒田が高山駅に着くと、ゴードンのゲストハウスでアルバイトをしている佐山が迎えに来ていた。彼が迎えに来ることは事前に英国の弁護士から知らされていた。

「黒田先生ですか。お待ちしてました。タクシーならこちらです」

「いや、その前に昼食を摂りたいのだけど」黒田は答えた。

佐山が美味しい店だと連れて行ってくれたラーメンを食べながら、黒田はいくつか質問した。

「そちらのゲストハウスは最寄りのバス停からもさほど遠くはないと伺っていますが?」

「そうですね。最寄りのバス停からは10分ちょっと程度でしょうか」と彼は答えた。

「では、高山市の様子も見てみたいので、バスでどうでしょうか?」

「わかりました」

食事を終えた後、黒田はバス停に案内された。タクシーで行くなら迎えにきてもらう必要はほとんどない。バスは、やはり地元に精通した人が一緒でないと不安だ。それに、黒田の宿泊先は高山市内のビジネスホテルだ。帰り道を考えるとバスには慣れておいた方がよい。

佐山は、岐阜県内の大学に通う大学生で、飛騨高山が好きで、英語の勉強も兼ねてゴードンのゲストハウスでバイトをしているという。彼から聞く限り、ゴードンは人当たりの良い人のようだ。離婚訴訟の相手方から依頼を受けた不動産鑑定士にこうして迎えを寄越すくらいなのだから、底意地の悪いような人で無さそうなのは分かる。

バスの車窓から市街を眺めると、江戸時代の情緒の残る建物があちこちに残っている。「あ、あの路地を入った先に人気のプリンの店がありますよ」佐山は、そんな事も教えてくれた。

ゴードンのゲストハウスに到着したのは、午後1時を過ぎていた。黒田は、ゴードンに挨拶し、さっそく彼の案内で、ゲストハウスを見て回った。良く手入れがされていて、建物としては、極めて良好な状態だった。ゴードンとは英語と日本語を交えた会話となったが、意思疎通に何ら問題はなかった。ひととおり建物を見て回った後は、周辺環境を調査しようと外出し、ゴードンと共に周囲を散策した。民宿やゲストハウスが数件あった。ゴードンが言うには、最近では飛騨高山も外国人の観光客が増えており、そんな外国人客でゴードンのゲストハウスは賑わっているという。「やはり、ミシュランで3つ星の観光地ですからね」と黒田が言うと、「そうです。日本人よりも海外の人の方が、飛騨高山の価値をよく理解している」と、ゴードンは日本語で答えた。「灯台下暗し」という言葉が、黒田の頭をよぎった。

空地があったので、ゴードンに尋ねると、そこには外国人の別荘が建つ予定らしい。既に売れたのか、空地の奥に売り地の看板が無造作に置き捨てられていた。黒田は、なんとなく気になって、その看板の写真をスマホで撮った。後で、その不動産会社のことをゴードンに尋ねると、彼らが購入した土地を仲介したのもその不動産会社だったそうだ。つまりは、その会社が、英国の家庭裁判所にゴードン側の土地建物の価格に関する査定を提出したということだ。ゴードンが帰った後も、黒田は、暗くなるまで周囲を歩き回り、周辺の人の話も聞いた。夕方、一旦、ゴードンのゲストハウスに戻ると、長い黒髪の30才前後の女性がキッチンで料理を作っていた。ゴードンから夕食を一緒にどうかと誘われたが、弁護士から釘を刺されていたこともあったため丁重にお断りし、調査への協力に対して感謝の言葉を述べ、黒田はゴードンのゲストハウスを辞した。

高山市内のビジネスホテルで一泊後、黒田は、午前中に高山の市街を軽く散策した。たしかに外国人の観光客も多い。事務所へのお土産に、昨日、迎えの佐山から教えてもらったプリンをお土産に買って、帰京の途についた。電車内では、昨夜から書き始めた鑑定書の作成を続けた。時間は無駄にできない。

■不動産鑑定士と宅地建物取引業者

帰京した翌日には、鑑定書を仕上げ、翻訳作業に入った。海外向けのフォーマットもあるので、通常の日本語での鑑定に比べれば一手間かかるものの、翻訳作業自体はそれほど難しいわけではない。無論、追加料金はいただく。

鑑定価格は簡易査定時より若干上がり、土地が5675万円、建物が3325万円で合計が9000万円となった。現地調査の甲斐があったというものだ。やはり、飛騨高山の観光地、そして別荘地としての市場価値は高い。

さっそく出来上がった鑑定報告書を英国の弁護士に送信した。

返信は。翌日届いた。鑑定書の内容には満足したようだった。しかし、次のような一文も付け加えられていた。

What is the difference in appraisal between a licensed real estate appraiser and a real estate agent?

つまり、資格を有する不動産鑑定士と不動産仲介業者はどう違うのか?ということである。黒田にしてみれば、「え?いまさら!」という気分だった。不動産業者の査定よりも不動産鑑定士の鑑定報告書の方が信頼性が高いのは常識である。しかし、それは、あくまでも日本での事情だ。英国にも不動産に関する各種調査を行うサーベイヤー(Surveyor)と呼ばれる職能がある。ただ、このサーベイヤーは、日本でいうところの不動産鑑定士以外にも建築士や宅地建物取引士なども包含するものだ。そうなると、英国の弁護士が、そうした質問をしてくるのも理解できなくはない。黒田は返信を書いた。

簡単にいえば、不動産仲介業者は、宅地建物取引業の免許を受けている個人又は企業である。その営業所には試験に合格した宅地建物取引士の設置が義務付けられており、開業には都道府県知事または国土交通大臣から免許を受けなければならない。宅地建物取引業者は、宅地建物の売買やその代理、媒介の他、賃貸の代理、媒介等を業として行うものである。彼らも、自らの情報から土地建物について価格を査定するが、それが専門ではない。あくまでも自らのビジネスに付随した範囲で行うもの、自らがその物件を買い受けたり又は買い取ろうとする場合によって、さらには顧客との関係によって査定価格が左右され得るのは当然の成り行きである。仲介で関与しようとする場合も同様である。

これに対して、不動産鑑定は、難しい試験に合格した資格者である不動産鑑定士が鑑定を行い、中立的かつ客観的な不動産価値評価をサービスとして提供するものであり、不動産鑑定士は、いわば不動産の価格等の評価それ自体の専門家である。そして、この鑑定評価に関しては法令等に違反した場合には重大な責任と罰則が課せられる。不動産鑑定士による不動産鑑定の信頼性はそうしたことによっても担保されているのだ。そのため、日本の裁判所で不動産価格が争点となる場合は、原則として不動産鑑定士による鑑定評価を行う必要がある。

すぐに返信がきた。宅地建物取引士と不動産鑑定士は、いずれも試験に合格して取得する資格であるとのことであるが、どちらの試験の難度が高いのかと問い合わせてきた。

宅地建物取引士の合格率は概ね17%、不動産鑑定士のそれは5%である。そして、不動産鑑定士試験は、弁護士資格を取るための試験、公認会計士資格を取るための試験に次ぐ、日本でも極めて難度の高い試験を合格しなければならないとも付記した。合格にかかる平均的な年数も違う。そう返信した。

■証言とディスカッション

Thank you very much for your assistance through this process.

Kind regard

と返信があった。今回の手続きにご協力いただき感謝します。敬具。といった内容だ。鑑定報告書は、依頼人の要望に応えることができる内容だったはずだ。一件落着と、黒田は請求書を送るつもりでいた。

しかし、そこへ思いがけないメールが届いた。

なんと、オンラインで英国の家庭裁判所において、不動産鑑定についての証言をして欲しいというのである。

黒田には、裁判所で同様の証言をした経験があった。むろん、日本の裁判所でだ。その際、相手方の弁護士や裁判官から質問され、それに対して、その場で答えるのは、やはり神経を使う。英国でも同様であろう。英会話には相応の自信はあるものの、正直なところ不安もある。そして、何よりも今回の証言では、時差のせいで夜中に証言しなければならないというのだ。

スケジュール帳を繰ってみると、その期日の翌日は、他の相続に関わる重要な案件で、当事者に直接会わなければならない日だった。依頼者に頼まれて作成した売却プランについて共同相続人に説明しなければならない。そんな日の前日に夜更かしはご免被る。黒田は、そうした事情を書いて、その日には証言できない旨を返答した。

たしかに、鑑定評価の信用性を高めるには、作成者本人が直接裁判所で証言し、両当事者や裁判所の質問に答えた方が良いのは、洋の東西は問わないのだろう。とはいえ、日本における不動産取引業者と不動産鑑定士との違いは、英国でもそれなりに調査することは可能なはずだ。資料を集めて裁判所を説得するのは、弁護士の役目である。黒田は、内心ではそう思っていた。

 

その日の夕方、黒田は、別件で知り合いの弁護士と打合せがあった。打合せ自体が早く終わったので、軽く世間話という体の情報交換となった。その中で、黒田は、具体的な事案は伏せた上、オンラインでだが、英国の家庭裁判所で不動産鑑定について証言してくれと頼まれ、それを断ったことを話した。

「要するにさ、相手方が出してきた不動産価格に関する査定をだしたのが名古屋の不動産会社で、その査定と、自分の鑑定書について、不動産業者の査定とどこが違うのかを証言して欲しいらしいんだ」黒田が説明した。

「ほお。英国の裁判制度や不動産取引についてはそれほど詳しくはないけど、あちらと日本では制度が違うみたいだからなあ」

「まあ、そういうことなんだろうな」

「ところで、名古屋の不動産会社というと半年くらい前に脱税で捕まった会社があったな」その弁護士は、ふと思い出したように、そんなことを口にした。

黒田の脳裏によぎったのは、高山市に現地調査に行ったとき、売り地となっていた空地に置き捨ててあった看板に出ていた不動産会社だった。そうだ。何となく気になって写真を撮ったが、それは、新聞かネットでその名を見ていたからだ。黒田は、慌てて自分のスマホからその画像を探しだして、弁護士に見せた。

「あ、それだよ。おそらくその会社だと思う」弁護士は、自分のスマホで検索して、ニュースページを開いて黒田に見せた。愛知の国税局が、その会社を脱税の疑いで愛知地方検察庁に告発したというニュースだった。黒田にも見覚えがあるページだった。

 

数日後、英国の弁護士から再びメールが来た。

なんと、今度は、日時はできるだけそちらの都合に合わせるので、ゴードン側の査定を作成した名古屋の不動産会社とディスカッションして欲しいというのだ。これは、裁判所からのオーダーだという。

英国の弁護士が言うには、件の不動産会社は海外顧客向けの物件を多く扱っているためその方面の造詣が深く、英語を母語とする外国人スタッフもいるだろう。たとえ英語が堪能な日本人でも、英語を母語とする者とのディスカッションには困難がつきまとうだろうから、ディスカッションでポイントを挙げようとしているのかもしれないとのことだった。そして、黒田には、是非とも日本における不動産鑑定士の権威を説明して欲しいという。

黒田は考える。相手方は、おそらくこちらの鑑定評価が妥当であることもある程度認識しているのではなかろうか。多少英語が出来るとしても、相手は日本人だ。ディスカッションともなれば、英語を母語とする者を相手に十分な主張を展開することはできまい。そうした想定で相手方が裁判所にディスカッションを求めたのかもしれない。弁護士の言うとおりだろう。一方、裁判所にとっても、日本の制度を詳細に知るには、日本語の資料を精査する必要がある。その手間を省きたいという側面もあるのかもしれない。さらにいうなら、メアリー側の弁護士も、日本語で書かれた文章を正確に英訳する手間を惜しんでいる可能性もなくはない。

相手方が自分の英語力を見くびってディスカッションを求めているのなら、受けて立ちたいという気持ちもあった。しかし、そんな自尊心はビジネスでは要注意だ。黒田は自分を戒めた。ある程度の英会話が出来るということと、英語を母語とする者とディスカッションするのは別だ。むしろ、安易に受けて立つことこそ相手の術中だろう。慎重になるべきだ。黒田は、ディスカッションを断った。

ただ、断るにしても、相手はあくまでも自分の顧客の代理人である。ただ断るだけでは申し訳ない。そこで、数日前に知った、その名古屋の不動産会社のスキャンダルについて、記事の見出しと概略を英訳して送ってやった。むろん当該記事のURLも付けて。脱税をする会社の作成した査定価格である。その公正性が低下するのは免れないだろう。とすれば、黒田が作成したメアリー側の鑑定評価に対抗するには、新たに鑑定評価を作成するしかないが、黒田の鑑定と極端に価格が異なる鑑定評価をするのは難しいだろう。となれば、相手方としては、費用をかけてまで新たに鑑定評価を作成するかどうかは微妙なところだ。黒田はそんな風に考えた。それでもなお、相手方や裁判所がディスカッションを求めるなら、その時はその時だ。

翌日、ディスカッションに参加いただけないのは残念だが、貴重な情報の提供に感謝するとの返信メールが届いた。

■エピローグ

しばらくした後、弁護士から、無事、離婚が認められたとメールで知らせがあった。例のゲストハウスの敷地についても、メアリー側の主張、つまり黒田が作成した鑑定評価が採用されたという。裁判所が自ら日本の制度について調査したとのことだ。さらに、弁護士によれば、例の脱税の情報は、査定価格を含めた相手方の価格査定の信用性を下げるのに一役買ったようだ。それでも相手方は、日本の不動産鑑定士に鑑定をさせることはしなかったのだという。やはりな、黒田は思った。まずは職務を全うできたことに胸をなで下ろした。

 

それから2ヶ月程経った頃だろうか。黒田鑑定事務所にエアメールが届いた。依頼人メアリーからの礼状だった。

正式に離婚が成立し、財産分与を受けることもできた。そして、新たなパートナーとの生活ができるようになった。それも、ミスタークロダのお陰だ。この感謝の気持ちはEメールでは伝わらないと考え、敢えてペンで認めたエアメールを送る次第である。離婚が成立し、相応の財産分与を受けることができ、新しいパートナーもできた。その喜びが伝わってくる。そうした内容だった。

メアリーも結婚したのか。結婚。ん?パートナー?ということは、まだ結婚はしていないのか? 黒田はメアリーからのエアメールを読み直した。Civil Partnership? シビル・パートナーシップ? そして、封筒の中には写真が入っていた。そこには笑顔の2人の女性が写っていた。ジーンズと思しき青いズボンに白いシャツを着た黒髪のロングヘアの白人女性と、ランニングシャツにショートパンツで陸上選手のような格好をしたブロンドのショートヘアの白人女性が写っていた。黒田はメアリーに直接会ってはいないが、物件資料として送られてきた画像の中に、ゴードンと一緒にメアリーと思しき女性が写っていたので、ロングの黒髪がメアリーであろう。そのパートナーがこのブロンドのショートヘアの女性か。陸上選手のようで、ショートパンツからはスラッとした足が伸びたボーイッシュな印象を受ける女性である。

「前に英国の離婚裁判について鑑定の依頼があったろ。その依頼人からお礼状が届いたよ」黒田はそういって、手紙を訳したメモと一緒に手紙と写真を、近くにいた女性事務員に手渡した。彼女は、「あ、所長がプリンを買ってきてくれた時の方ですね」と、手紙とメモを受け取り、それに目を通すと「え、何?うそー」と声を上げた。それに釣られてか、「え、なになに」「これってLGBT?」と彼女の声に釣られて他の者も集まってきて手紙や写真をのぞき込んでいる。

 

相手方のゴードンには既に日本人女性のパートナーがいると聞いていたために、黒田はゴードンの浮気が離婚の原因だとばかり思っていた。もっとも、今から思い返してみるとゴードンは、離婚裁判の相手方が依頼した鑑定士にも拘わらず、わざわざ迎えを寄越すなど決して人柄が悪い人物には見えなかった。むしろ好人物ともいえた。もしかして、離婚の主な原因はメアリーがレズビアンだったことなのか。でも、男性であるゴードンと結婚していたわけだろ。メアリーが自分のそうした性向に気付いたのはゴードンと結婚した後なのだろうか。どちらが先なのかは、今さら黒田に知る由もない。世の中、いろいろだなぁ。不動産の多様性は十二分に理解しているつもりではあるが、人間の持つ多様性についてももっと認識を深めねばならない、そんな感慨にふける黒田であった。

 

終わり

 

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執筆:ノリパー先生

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