遺産分割|思い出の樹(後編)
相続した土地をめぐる姉弟の対立を描く物語を連載します。
不動産をめぐる相続のよくあるトラブルの一例として、参考になれば幸いです。
相続税と一物四価
「あの、ところで、この土地を相続されるとなると、基礎控除額を超えるのは間違いないですから、相続税についてのご準備は?」黒田が訊ねた。直紀は、少し困ったような顔をしながら答えた。
「父の相続の時も、土地については、今回と同じこの土地の3分の1を相続して、父の預金で問題なく支払えましたので、今回も大丈夫じゃないかと」直紀は、「預金」という言葉が口を出た途端、早紀にむかって「独り占めにする気か」と言ってしまったことを思い出し、胸がチクリと痛んだ。
「あの、差し出がましいことを言うようですが、お父様の相続の時よりもお母様の相続の場合、相続される現預金は少ないと思われますので、注意された方がよろしいかと」
直紀が土地の売却を前提としているということは、彼が現金を必要としているのだろうということは容易に想像できる。相続税は現金での一括納付が原則であるから、黒田としては、相続税についても注意を促しておきたかった。
「良い税理士さんをご紹介いただけると、ありがたいのですが」少し考えてから、 直紀が言った。
「ご紹介できます。私も、相続税が安くなるよう協力できますし」
「そうですか。ありがたいです。是非、お願いします。」
「わかりました」
「それにしても、土地は売ろうと思うと高く評価してもらいたいし、課税評価としては低く評価してもらいたいとは、勝手なものですね」直紀は苦笑いした。
「土地は、一物四価といいますから」
「一物四価?」
「土地には、実勢価格、公示地価、固定資産税評価額、相続税路線価と、4つの価格があるんですよ。実際に売るときの価格が実勢価格で、相続税の課税評価が相続税路線価です」
「なんだ、もともと土地は4つも価格があるんですね」
「だから、不動産鑑定士なんて仕事もあるのですよ」
「なるほど」直紀は、つくづく土地の価値というものは不思議なものだと思った。
姉弟
アトリエでキャンパスに向かって絵筆を走らせていた早紀の携帯電話が鳴った。直紀からだ。
「遅くなったけど、例の件、土地について話し合いたいのだけど」早紀が電話にでると、直紀は名乗りもせずに用件を切り出した。
「いいわよ。いつにする?」
早紀が、司法書士の酒井から直紀が改めて話し合う気になった旨の連絡を受けてから、既に2週間以上過ぎていた。早紀としては「やっと」という思いが強い。翌日の土曜日に、直紀がここに来る事になった。
***
(もうそろそろ直紀が来る時間かな)早紀は、庭に出て、例の樹、早紀が密かに思い出の樹と名付けた樹を眺めていた。
(この辺りにイーゼルを立てて、お祖父様は絵を描いていたっけ)自分の家に飾られている祖父の絵を思い浮かべた。
まだ小学校に入る前の直紀が樹に登ろうと幹にしがみついた。しがみついて、ジリジリとよじ登っていく。「危ない、危ない」と声を出す少女。しかし、小さな直紀の手が届く範囲には枝なんかない。しがみついて、僅かずつ手や足を上に持っていっているだけでは、いくらも登れはしない。足が地面から離れているのは30センチほどに過ぎなかった。
祖父も「こらこら、危ないぞ」と声をかけてはいるが、にこやかな顔だった。すぐに手足が疲れてきたのか、小さな直紀は樹から落ちた。落ちたといっても、30センチもないような高さからである。よろよろとして、尻餅をついた小さな直紀は「あ~あ」と声を上げた。
早紀の顔はほころんでいた。
ふと、自宅の玄関付近で人の気配が感じられた。目を向けると、玄関の前には直紀がいた。直紀も人の気配を感じたのか、庭にいる早紀の方へ目を向けた。二人の視線があった。
「ああ、姉さん、そこに居たのか」言いながら、直紀は、早紀のいる方へ歩いてきた。自然と直紀の眼も思い出の樹に向けられた。早紀の家に飾られている祖父の絵を思い浮かべ、思わず顔がほころんだ。
「姉さん。この前はごめん。姉さんの土地まで売ろうなんて、なんか勝手なこと言っちゃって」
ここまで来る間、直紀はこの言葉を言わなければいけないと思いながら、歩いていた。あまりに自然に口に出たことに、自分でも驚いた。
「わたしこそ。全部欲しいなんて、無茶な事を言っちゃって。いくら何でも、よね」早紀は苦笑した。
「ねえ。直紀、ここに帰って来ない?」
「え」姉の突然の申し出に、直紀は少し驚いた。
「あなたは、飯野家の跡取り息子なのよ」
「母さんみたいなことを言うね」
二人は並んで、思い出の樹の前に佇んだ。小鳥のさえずり、風で木の葉が揺れる音。
ほんの一瞬、穏やかな時間が流れた。
「いや、無理なんだ。姉さん。僕にはお金が必要なんだ」
お互いが、はっきりと本音を伝え合った。
早紀は、直紀の言葉の意味を自分なりに吟味しているようだった。
「でも、この樹は、姉さんのものだよ」
「そう。ありがと」
「でも…」直紀が言いかけると「寒くなってきたわ。中に入りましょ」と早紀は、先に立って歩き出した。直紀は黙って後を付いていった。
***
こじゃれたマイセンのティーカップに早紀が紅茶を注いでくれた。
「これ、美味しいわよ。」ソーサーに載ったティーカップが直紀の前に置かれた。早紀が椅子に座ると、直紀は、目の前のティーカップを見つめながら、「姉さん、この前はごめん」と呟いた。
「え?」早紀は、意表を突かれたような顔をした。
「母さんの預金を独り占めする気か、なんて言って…」
「ああ、今度はそのこと?貴方、お金が必要な事情があったんでしょ?」思いもよらない姉のあっさりとした答えに、直紀は少し驚いた。
「姉さん、怒ってない?」直紀が、顔を上げて、早紀の顔をのぞきこむにようにして言うと、
「そりゃ、怒ったわよ、あの時は。でも、何か、お金が必要な事情があって、あんなことを言ったんでしょ」早紀が訊き返してきた。
「うん。実は…」直紀は説明を始めた。
直紀の勤める出版社は業績が悪化していた。特に、直紀が部長職を勤めている第2コミック部、つまりコミックの売上げが振るわなかったのだ。ネット通販の拡大に応じて駅前にあったような小さな書店は次々と閉店した。コミックの主な購買層である中高生は活動範囲が狭い。身近に書店がなくなると、自ら手に取って本を見る事が少なくなる。仮にネットで評判になっても、中高生がクレジットカードを持っている事は少なく、ネットで買うことは少ない。やはりコミックは書店で直接手に取ることができないと売れにくいのである。こういった事情が、ボディーブローのように第2コミック部の売上を下げていった。
そして、ついに勤め先の出版社は、取引銀行から組織のスリム化と人員の整理を迫られ、その中で直紀の第2コミック部の廃止、若しくは、売却が検討された。そうしたとき、直紀のかつての上司が、第2コミック部のMBOを提案したのだ。MBOとは、ManagementBuyoutの略で、経営陣が会社やその一部の事業部門を買い取ることを意味する。つまり、その上司と直紀で資金を出し合って、第2コミック部を独立した出版社として買い取ろうというのだ。それがちょうど、直紀達の母が亡くなる前後だったという。
直紀には資金の当てがなく、独立を諦めかけていたところで、相続ということになったのだ。
「難しい事はわからないけど、要するに、あなたが出版社の社長になろうというわけね」
「うん。出版社として独立するといっても、ごくごく小さな編集プロダクションみたいなものだよ。細かいところは、まだまだ詰めていかなければならないのだけど、今までの仕事の成果を形にしていくには、どうしてもMBOして独立したいんだ」
「もっと早く言ってくれても良かったのに」
「いや、ん~」困ったような顔をして、直紀は頭を掻いた。
「なんか、こう、自分の身勝手というか、自分の野心を口にするというか、無謀な冒険のように思えて。ギャンブルのように思われるんじゃないかと。母さんが亡くなって、相続財産をそういうことに使うというのが、ちょっと後ろめたいような気がして。それに、姉さん、会社勤めをしたことないだろ。特に会社経営するなんて、分かってくれないだろうと」
「たしかに、画家なんてやっていると、他の会社と競争したり、売上とかお金で結果がでるような仕事をしている直紀からみれば、浮き世離れしてるように思えるかもしれないけど、けっこう厳しいのよ、絵を描いて生活していくっていうのも」「うん」直紀は申し訳なさそうだった。
「私も高校で美術を教えていた時、講師じゃなく正式な教員になるか、講師をやめて絵だけでいくのか随分悩んだもの。独立するという意味では、あの頃の私は、今の直紀と似たようなところがあったと思うな。それに、お父様もお母様も、遺した財産が直紀にとって本当に必要なことに使われるなら、むしろ喜んでくれるんじゃないかな」
直紀は黙って姉の言葉に耳を傾けていた。心が温かい真綿にくるまれるような気持がしてきた。胸に染みる、というのは、こういうことかと直樹は思った。
「ところで、具体的にはどうするの?それ」早紀は、直紀がテーブルの上に置いた大きな封筒を指さした。
「そうだね。肝心な話しをしないと」
直紀は、封筒から、不動産鑑定士から受け取った提案書をテーブルの上に出し、早紀の方へ押しやった。
早紀は、手に取った提案書を見ながら言った。
「土地を分けるということね。そして、あなたは売る」
「うん。ごめん。でも、あの樹は、姉さんのものになるよ」
「土地を分けても、あの樹はあなたと私のものよ」早紀はにっこりと笑った。「だって、あの樹は、私とあなたと、亡くなったお父様、お母様、お祖父様との思い出の樹よ。私1人のものだと言われても、うれしくない」
直紀は、目頭が熱くなってくるのを感じていた。
「ありがと」直紀は、それだけいうのが精一杯だった。
エピローグ
A案を基本として、土地を分割することになった。
直紀が、当初、早紀の土地まで売却する事を提案したのは、相続税のことまで考えると、MBOに必要な現金を確保するには、どうしても1億円以上で土地を売却しなければならないと思われていたからだ。しかし、その後、直紀たちの雑誌に連載していたコミックにアニメ化の話しが持ち上がった。そうすると、今の会社も出資するということになり、銀行の融資枠も増えた。結果として、直紀が実質的な経営権を得た上で、これまでと同様な業務を続けていくために必要とされる資金について、直紀が負担すべき額がいくぶん少なくなったのだ。
さらに、預金は直樹が相続した。鑑定評価としては早紀の土地の方が直紀の相続した土地より僅かだが高額だったこともあって、相続税の足しにするようにと、早紀が譲ったのだ。早紀にしてみれば、父の相続の時、彼女は土地を相続していなかったので、ほとんど相続税は負担しておらず、父から相続した預金はほぼそのまま定期預金として残っており、相続税の支払いに心配はなかったからだ。
土地の測量も行われた。早紀からは、玄関先を少し広くとって欲しいとの要望が出され、若干の調整がなされた。そして、協議書がまとめられ、同時に、直紀が相続する土地の売却についても準備が進められた。
相続に基づく土地の所有権移転登記だけでなく、土地の分筆登記も必要であるため、必要となる書類はそれなりに多くなった。土地家屋調査士による手続きも調い、早紀と直紀は、酒井や黒田らと打合せを重ねながら、慎重に登記に必要な書類を調えていった。
***
酒井の司法書士事務所に、直紀と早紀、そして不動産鑑定士の黒田が集まっていた。酒井が作成した書類に、直紀と早紀が実印を押している。
「離婚届に押して以来だから、緊張する」
早紀の言葉に同席した者たちは一瞬笑いかけるが、離婚届などと言われると、声を出していいものかと顔が少しひきつっている。
「姉さん、父さんから土地を貰った時や、父さんが亡くなった後の遺産分割協議書の時も押してるだろう」と直紀。
「そうかぁ。忘れてた」早紀の顔は笑っていた。
2人が書類に印鑑を押し終わると、酒井が順に確認している。「はい。これで全ての書類が調いました。本日中に法務局に提出しますので、登記が完了するまで10日くらいでしょうか。完了しましたら、こちらからご連絡いたします」酒井が、早紀と直紀の顔を交互に見ながら言った。
「僕は、これが完了したら、またお邪魔しなくちゃですね」
「そうですね。業者の方と来ていただいて、ここで決済することになります」直樹の相続した土地を売却するための契約のことである。
「その時も、同席させていただきます」酒井の言葉を承けて黒田が言った。「お願いします」
「土地を売っちゃって、母屋が取り壊されたら、私の家が直紀の実家よ」「え、僕が跡取りだから、姉さんの実家がうちじゃないのか?」「違うわよ。仏壇はうちにあるでしょ」
「そうか。姉さんのうちが実家かぁ」
「だから、いつでも来てね」
「うん、そうするよ」直紀は静かに言った。
「ところで、今度、社長になられるとか。そちらの方も順調ですか」ちょっとしんみりとした雰囲気になったせいか、黒田が明るい声で訊ねた。
「ええ、おかげさまで。今、うちの部署にいる社員のほとんどが新しい会社に来てくれるようです。まだまだいろいろとありますが、なんとかテイクオフできそうです」直紀の声が明るくはずんだ。
「そうそう、新しい会社の設立登記は、是非うちに」と酒井。
「あ、そうですね。その時はお願いします」
「酒井さんは抜け目なく営業してるなぁ」
黒田の言葉に、皆が笑った。
思い出の樹~終~
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