地主様向けお役立ち情報

悩ましの代理人 – 仕組まれた罠と落とし穴 –

今回の短編小説では、売主代理人と三為(さんため)業者がグルだった「不動産取引の罠」をテーマにしています。

三為契約とは、いわゆる第三者のための契約のことです。

通常の売買では、売主から買主に所有権が移転しますが、三為契約の場合は、買主が指定する第三者(転売先)に対して、売主から直接所有権が移転します。

端的に言うと、買主業者による「即時転売契約」のことです。

今回のケースでは、買主業者は転売先から入る代金で、売主達への代金を支払う予定だったのですが、買主業者と転売先間にトラブルがおこったために、買主業者が売主達に払うべき代金を支払えなくなった、という事案です。

三為取引それ自体は違法ではありませんが、中間業者に儲けさせることを知りながら積極的に自分の土地を売る所有者はいないでしょう。

ところが今回のお話では、売主代理人がそれをおこなっている点に倫理上の問題があり得ます。

皆さんはどう思われますか?

なお、実例に基づいていますが、プライバシーに配慮するため、物語と登場人物はフィクションです。

不動産の実務にまつわるリアルなお話として、なにかの参考になれば幸いです。

≪記事を読むのに約15分かかります≫

【目次】

仕事が遅い弁護士

解任

不動産取引と弁護士

弁護士との面談

契約したのはいいけれど

解除しない?

利益相反行為

違約金

完落ち

エピローグ

 

■仕事が遅い弁護士

「午前中に送信しました私のメール、ご覧いただけましたか?」

「はい、確認しました。私も先月のはじめに今回の件についてご提案させていただき、未だ美津代様たちの方からの回答についてご連絡がないものでしたから、気にしていたところです」

「そうなのです。既に4月20日です。紀野先生は先方の角田弁護士にこちらからの提案を伝えていなかったのです!」先方の声は、怒気を含んだ声になっていた。

 

4月20日の午後、不動産鑑定士黒田の元に電話をしてきたのは、父親が姉弟3人で共有する3筆の土地を整理しようとしている岡本和男だった。彼は、2月の初め、この共有地について鑑定を依頼してきたのだ。

岡本の父は、都内港区にある合計600㎡前後の土地3筆を姉弟3人で共有していた。うち1筆には姉弟3人共有のマンションが建っており、他の2筆は底地(賃貸した土地)であった。これらの土地は岡本の父が管理し、土地やマンションからの収入は岡本の父が姉や弟に分配していた。しかし、岡本の父も高齢のため伏せりがちとなり、今では息子の和男が代わって管理を行っていた。共有者は皆、90才前後となっていた。そうしたところ、父の姉と弟、岡本からみれば伯母と叔父であるが、彼らから終活の一環として共有関係の解消と共有地の売却の提案がなされた。岡本の父は、共有関係の解消に異存はなかったのだが、先祖伝来の土地であるため、一部は手元に残し、岡本に相続させたがっていた。そこで、岡本は、価格の鑑定依頼と共に、共有地を解消し、その一部を手元に残す方策について、黒田に相談していたのだ。

黒田は、マンションの建つ土地は売却、残る2筆の土地のうち1筆を共有者同士で持分を交換する等価交換によって、岡本の父の手元に残すプランを作成した。これを岡本に伝えたのが3月上旬であった。

今回の共有地解消に関し、岡本の父には紀野という弁護士、伯母と叔父には角田という弁護士がそれぞれ代理人として付いていた。紀野弁護士は、岡本の父が昔から付き合いのあった大手銀行の地元支店から紹介されたとのことであった。黒田が作成したプランは、この紀野弁護士から、伯母たちの代理人である角田弁護士へ伝えられる手筈になっていた。しかし、それは1ヶ月以上前の3月上旬のことであった。そして、今日4月20日の午前中、黒田の元に岡本からメールで、紀野が角田弁護士宛に送るつもりだというFAXの文案が送られてきたのだ。

 

目が点になるというのは、まさにこのことである。紀野弁護士から岡本へこの文案が送られてきたメールには、「多忙で、遅くなり申し訳ありませんでした」との文言があったというが、いくらなんでも遅すぎる、黒田が頭を抱えていたところに、当の岡本から電話がかかってきたのである。

■解任

「FAXの文案自体は問題ないと思いますが・・・」相手の声から怒気が感じられるだけに、黒田もやや慎重な物言いとなった。

「むろん、内容に問題はありません。それにしても遅すぎます。こちらからメールを送ってもレスポンスが遅く、10日経っても返信がないので再度メールをすると、ごく簡単な返信がくるのみで、電話をしても、早急に対応します、の繰り返し。これでは、伯母さんたちにも迷惑をかけるし、弁護士って、こんな仕事が遅いものなのですか」

「いや、人によるとは思いますが、さすがにメールへのレスポンスが10日以上というのは尋常じゃないですね」

「このままでいいのでしょうか。黒田先生はどう思いますか?」

「う~ん」黒田は、即答できなかった。想像するに、その弁護士が抱える案件の中で岡本の案件の優先順位が著しく低くなっているのだろう。依頼人の切迫感とのギャップである。代えた方が良い、と思わざるを得ない。しかし、不動産鑑定士の立場として、そこまで踏み込むべきなのか多少の躊躇があった。

「紀野先生は銀行からの紹介なので、私も信用していたのですが、なんだかんだと1ヶ月以上も後回しにされるというのは、どうにも納得がいきかねます」岡本の声に再び怒気がこもった。

「今後のことを考えるなら、紀野先生から他の弁護士に代えた方がよろしいかと…」黒田もさすがにそう言わざるを得なかった。

もっとも、黒田の本音としては、特に争いが生じていない不動産取引について弁護士を代理人にする必然性は乏しいと感じていた。単に共有関係の解消のために不動産取引をしようというだけだからだ。おそらく岡本も、伯母たちが弁護士を代理人としたので、銀行に紹介してもらった紀野弁護士を代理人としたのだろう。

「黒田先生もそう思いますよね。まずは今回のFAXは先方に送ってもらうとして、紀野先生の解任については、銀行の担当者の方へ伝えるつもりです」

「それがよいと思います」

「そこで、つきましては、紀野先生の後は、黒田先生が角田弁護士と交渉していただけないでしょうか。共有地の解消や不動産取引については、先生もかなりの知識と経験をお持ちとお見受けいたしますので」

「はい。それは構いませんが。まずは、紀野先生にFAXを送ってもらい、それに対する角田弁護士からの返答を確認したいところです」

「そうですね。解りました。そうします」

ひとまず、黒田は岡本からの電話を置いた。

未だこれといった争いが生じていない不動産取引の交渉を引き受けることは、特に問題はない。これまでもやってきた。今回は、高額の取引になるため、岡本の伯母たちは弁護士を代理人として立てたと思われるが、売買や交換の交渉は本来、不動産仲介の業務である。黒田も宅地建物取引士の資格を有しており、事務所も宅地建物取引業者、いわゆる不動産仲介業としての免許を取っている。むろん、今回は仲介で入る訳ではないが。ただ、共有者である岡本の伯母たちの代理人が弁護士である。不動産を良く理解している人であれば問題はないが、弁護士は不動産の専門家ではなく法律の専門家である。意見の齟齬が生じないとも限らない。意見が異なった場合に弁護士を相手に説得するのに骨が折れるのは、これまでも経験している。

そんなことを考えているところに、黒田のスマホに1通のメッセージが届いた。知り合いの司法書士・大山からである。近所まで来ているので、今晩、時間が空いているようなら軽く一杯どうか、という誘いだった。渡りに舟とはこのことである。彼は、かつて企業の法務担当者として多くの訴訟事件に関わった経験があるし、司法書士であるため不動産取引についての知識も豊富だ。気になった事を訊ねてみるには絶好の相手だ。

■不動産取引と弁護士

午後7時過ぎ、黒田が行きつけの小料理屋に行くと、件の司法書士がお通しを肴に日本酒を傾けていた。

「おお。ごめん。先にやっていたよ」大山がテーブルからにこやかに声をかけた。

「遅れて、すまん」黒田は大山の前に腰を下ろした。

「まずは刺し盛りでいいかな」と大山。

「そうだな」

2人は、目の前の刺し盛りをつつきながら、しばらく世間話に興じた。そして、黒田が本題を切り出した。

「不動産取引の交渉って、弁護士がやるものなのか」

「ん、何かトラブってるの?」

「いや、単なる共有地の売却で、弁護士と交渉しなければならなくなりそうなんだけど、同じ土地の共有者の代理人として弁護士が付いていてね。共同で売却しようなんてことになったときに、もしかしたらちょっとやりにくくなるかな、なんて思ってさ」

「その弁護士先生に何か問題でも?」

「いや、まだ会ったこともないので、そこはなんとも」

「そういえば、売買の相手方の弁護士に、『先生、それは契約書を読み違っていませんか?』と言ったら、すごくムッとした顔をされて『そういうのは非弁活動にならないのでしょうかねえ』なんて、嫌みを言われたことあるな。むろん、ただの嫌みだけど」

「非弁ねえ」

「たしかに弁護士法では…」そう言いながら、大山はスマホを操作して、弁護士法の条文を出して、それを黒田に見せながら話しを続けた。

「要は、弁護士でない者は、報酬を得る目的で法律事件に関して法律事務を業として扱ってはいかん、ってことだね。むろん、行政書士や司法書士が行える法律事務は別だけど。たしか判例では、俺の知ってる範囲だけど、債務の取立てや、不動産に関しては立退きに関わる案件については、法律事件にあたるとして、そういった事を弁護士以外の者がやると非弁活動となるみたいだ。立退きが関わりそうな案件なの?」

「いや、それはない。底地のままでの取引だし、単に共有する土地の共有関係を解消しましょうというだけで、今のところ、等価交換でいこうかと考えてはいるのだけど、場合によっては共有者間での売却になるかもしれないけど」

「それだったら、問題ないでしょ」

「だよな。事実上、不動産仲介みたいな業務だし」

「と思うけどね。社会関係において法律が絡まないものなんて少ないから。コンビニで買い物しても売買だし、この居酒屋だって食品衛生法の届出が必要だし。知り合いの行政書士がマンション建替適正化法に則ったマンションの売却をやっていて、弁護士に相談しようにも解る弁護士がいなくて、もはや自分らで条文を読み込んで役所と相談しながらやってるみたいだよ」

「弁護士も、ありとあらゆる法律に精通しているわけじゃないもんな」

「だから、法律が関わるからと言って、全てを弁護士に依頼しなければならないことにはならないよ。でもさ、プライドの高い弁護士先生だと、司法書士を格下と見てたりして、それは違うのでは?なんて言われるとヘソを曲げて嫌みを言う先生もいるけどね」

「不動産鑑定士も格下に見てるかな」

「人によりけりじゃない?ただ、俺の場合、あの先生には、もう少しやんわりとした言い方をしておけばよかったかなという反省はあるな」大山が苦笑いした。

「はい、気を付けます」黒田は笑って答えた。

■弁護士との面談

3日後、再び岡本から黒田の元へメールが届いた。それにはPDFファイルが添付されていた。伯母と叔父の代理人である角田弁護士から岡本宛のFAXである。こちらから送った等価交換の提案に対する回答だった。

等価交換に応じない。3筆の一括売却なら応じる。もし、一部の土地を単独所有にしたいという希望があるのなら、こちらの持分をそれなりの金額で買い取っていただくしかない。そうFAXには書かれていた。岡本のメールには、銀行を通じて紀野弁護士は解任したので、ついては、黒田に交渉にあたって欲しいと改めての依頼が認められていた。要するに、岡本が希望しているのは、一部の土地を岡本家の単独所有にして手元に残すことである。だとすれば、先月、岡本に提案して伯母たちから拒否された案に拘る必要はない。相手の言い分を聴きながら、また別の案を考えればよいだけだ。

黒田は、伯母たちの代理人である角田弁護士と面談したいと考えていた。向こうの意向を聴きつつ、新たなプランを作成したかったからだ。むろん、その際には岡本にも同席してもらいたい。今後の交渉は黒田が担当することも伝える必要がある。急いでその旨を記載したFAXの文面を作成した。それを添付し、文面に問題がなければ、この内容で岡本から角田弁護士に送ってくれるよう返信した。

 

4月も下旬であったため、結局、角田弁護士との面談は5月8日にずれ込んでしまった。黒田は、前回の提案に代わるものとして、大通りに面して比較的価格の高い1番地については、等価交換ではなくマンションの建つ2番地と共に売却して、その代金で奥まったところにある3番地の持分を岡本が買い取るというプランを用意した。むろん、その新しいプランは岡本も了解済みであった。

虎ノ門のビルの4階にある、角田を含む4名の弁護士の名字が並ぶ法律事務所へ着くと、黒田と岡本は事務員に応接室へと通された。応接間には洋画が掲げられていた。それが良いものなのかどうかは、黒田には解らなかった。そこへ、まもなく角田が現れた。

岡本が立ち上がり、軽く会釈をし「こちらが、不動産鑑定士の黒田先生です」と黒田を紹介した。「はじめまして、黒田と申します」黒田が名刺を差し出すと、角田も「弁護士の角田です」と角田も名刺入れから自分の名刺を出した。

3人はソファに腰を下ろすと、黒田が、紀野弁護士に代わって今後は、自分が岡本の交渉の窓口になる旨を角田に伝えた。

「ほお。不動産鑑定士さんがですか」角田は、緊張した顔つきで黒田の名刺を見ながら呟いた。

「等価交換はこちらにメリットがないのでお断り致します」角田はFAXで伝えてきたことを繰り返した。その顔は少々強ばっていた。提案を拒否された側が直接乗り込んできたからであろう。

「はい、それを前提に、新たなプランを用意してまいりました」黒田は、1番地と2番地を一括売却し、1番地の売却代金で、3番地の伯母たちの持分を買い取るプランを書いた提案書を、角田に渡した。「拝見させていだきます」角田は、手に取ると、提案書をゆっくりとめくっていった。

「3筆とも売却した方が、金額的にはよいとは思うのですけどねえ…」角田が言う。

「それは解っています。しかし、先祖伝来の土地でもありますし、父はせめて1筆は私どもの手に遺したいと。私も同じ気持ちです。万が一、どうしても3筆とも売却するしかないと仰るのであれば、共同売却の話しはなかったことにしていただくしかないかと…」岡本が毅然と応えた。これは、既に黒田とも打合せ済みの言葉だ。

「困りましたねえ。3筆全部の売却が金額的にも皆さんにとって最も利益になると思うのですが」角田の顔がさらに強ばってきた。

「利益と仰いますが、2筆の売却だけでも十分な金額になるのではないでしょうか?それに、父や私にとっての利益、つまり満足感を得る結果は、一部の土地を手元に遺すことなのです」岡本はそう続けた。

「そのプランは、いわば、その折衷案というべきものです」黒田が付け加えた。

角田は、プランを一通り読み終わると、「仕方ありませんね。3筆全部の売却では、和男さんが納得しないというのでは致し方ないでしょう。1番地と2番地を共同で売却して、3番地の持分を和男さんが買い取る。このプランでよろしいのではないでしょうか」と、しぶしぶといった様子ではあったが提案に応じた。

「ところで、これら共同売却する土地の買い手の方の目処は立っているのですか?」角田が訊ねてきた。

「いえ、まだです。まずは伯母さんたちにこの案を了解してもらわないとなりませんから」岡本が応えた。もっとも、既に岡本は不動産仲介会社や取引先の銀行等へ買い手の打診はしていた。とはいえ、具体的な買い手の目処がないことに嘘はない。

「岡本さんの伯母さま達からは、できれば3筆売却したいという話しは前から聞いていましたので、私の方にはいくつか買い手の候補があるのですよ」角田が言う。

「ほお」岡本が感心したように応じた。しかし黒田の内心は違った。どうやら3筆の売却を強く推していた角田弁護士はどこかの買い手と既に話しが付いていたのではないか?という疑念が湧いてきた。

「その中で最も良い条件と思われるのが…」と言いながら、角田はおもむろにパンフレットを、2人の方へ向けてテーブルの上に置いた。とある上場企業の会社紹介パンフレットだ。IT関係の人材紹介を行う東証グロース市場に上場している会社のものであった。

「え、まさかこの会社が買い手として手を挙げているということですか?」岡本が少し驚いたように訊ねた。

「いや違います。後ろの方のページにある関連会社の項目をご覧下さい。そこに『ランド・インターナショナル』という会社があるでしょう。そちらの会社が、この物件に関心を持っている不動産会社なのです。ランド・インターナショナルは横浜で創業し、主に神奈川県内の物件を扱っていましたが、その会社の出資を得て、東京へも進出しようとしているのです。上場企業と提携しましたので、信用面での不安はありません」角田は、顔を上げて対面者の方へ顔を向けた。

「ただ、3筆全部という話しでしたので、2筆のみとなると、そちらが納得するかどうかは、また別の話しです」角田は、やや岡本と黒田の顔色を伺うかのように続けた。

「そうですか。では、こちらでも買い手を探しましょう」黒田が応えた。「それでよろしいですね?」岡本に向かって念を押した。岡本はうなずく。

「いやいや、数億の取引ですから、そう簡単に買い手が見つかるかどうか」角田はやや嘲笑気味に言う。

「そのランド・インターナショナルさんよりも良い条件を出すところも十分あり得ます。他の買い手を探すのは当然でしょう」と返す黒田。

「いや、こちらでも、2筆で納得していただけるか確認してみますので」角田が間髪を入れずに応えた。

「ところでそちらは、3筆全部での価格は提示されてるのですか?」黒田が訊ねた。

「一応、5億円以上、5億5000万円くらいまでなら出せるという話しでした」角田は落ち着いた様子で回答した。

「納得の価格ですね」黒田が応えた。この買い手があって、角田は等価交換を拒否したのだ。そう黒田は確信に近いものを感じていた。黒田は、さらに続けた。

「岡本さんが持分を買い取りたいと言っている3番地は、大通りから最も奥まったところにある地積も最も狭いものですし、1番地と2番地だけだからといって、その価格が極端に安くなることはないはずです。せいぜい2割減額というところでしょうか」

それを聴く角田の顔が再び強ばった。「とにかく、私の方ではランド・インターナショナルさんに、その旨を伝えさせていただきます」

「わかりました。では、私どもは引き続き買い手を探すこととします」

その日の角田との面談は、それで終わった。

 

その翌日、黒田に、角田から電話がきた。ランド・インターナショナルは2筆でも構わないという返事だった。

「それで、金額は?」黒田が訊ねる。

「4億です」角田が答えた。黒田の見込みどおりである。

「もし、そちらと契約ということになると、契約締結や決済のスケジュールはどのようなものになるのでしょうか?」

「即金での支払いが可能とのことですので、近日中に契約は可能なのではないかという感触は得ています。和男さんもこちらへの売却を検討されるというのであれば、契約の骨子やスケジュール観については先方と連絡を取って、後日、書面にて共有者の皆さんにお知らせするようにします」角田は流ちょうに答えた。

「解りました。今のお話しを岡本和男さんに伝え、検討させていただきます」

「それではお願いします」

黒田は、その旨をメールで送信した後に、岡本に電話をかけた。

「岡本さんですか。黒田です。角田弁護士から連絡がありました。今、メールを見られる環境にありますか?」

「はい、書斎にいますので」重要事項は文面に認めておいた方がよい。だから、黒田は電話をかける前にメールを送信しておいたのだ。

「そちらを確認していただけますか」

「少しお待ちください」1分もかからずに、岡本が続けた。

「なるほど。4億ですか。それも即金で可能と」

「いかがです?」

「4億の取引ですからねえ、少し考えさせてください。父にも相談してみないと」

それはそうだろう。そう思いながら、黒田は答える。

「解りました。お気持ちが決まったなら、ご連絡ください」

 

■契約したのはいいけれど

角田の事務所で面談してから約1ヶ月、結局、角田から紹介された買い手と売買契約を締結した。しかし、契約の直接の相手方は、ランド・インターナショナルではなく、菊地不動産という不動産会社であった。角田の紹介した買い手は、上場企業の関連会社だというランド・インターナショナルだったにも拘わらずだ。角田にランド・インターナショナルを紹介したのは菊地不動産であり、どうしてもここを通して契約して欲しいというのである。つまり、今回の売買契約は、いわゆる第三者のための売買契約であり、岡本とその伯母たち共有者が売主、菊地不動産が買主となり、決済と同時に所有権は菊地不動産が指定する者、すなわちランド・インターナショナルへ所有権移転登記するという形の契約である。

菊地不動産は、町田市にある不動産会社であり、市内の雑居ビルの3階に事務所を構えるアルバイトを含め4人ほどの会社であった。角田には菊地不動産と直接交渉したいと申し入れても、のらりくらりとはぐらかされたので、黒田は自ら町田市まで足を運んで、菊地不動産の様子を直接その目で確かめていた。

黒田としては、ランド・インターナショナルと直接売買契約を締結するかのような最初の話しと違うので、この契約には慎重にならざるを得なかった。当然、岡本にはそう助言した。しかし、岡本としては、ただでさえ紀野弁護士のせいで取引が遅れている上、4億円というよい条件が出てるうちに売却したいと考え、契約締結を急いだのである。また、父親がこれでよいと言ったというのも大きかったようだ。父親にしてみれば自分の妹たちの弁護士の紹介であることからも信用してよいと考えたのかもしれない。もしかしたら、信用したい、という思いだったのかもしれない。一方、伯母たちの代理人である角田弁護士からの紹介ということもあり、伯母たちは反対するはずもなく、結局、この形で契約が締結された。

 

しかし、である。決済日になっても、代金は支払われなかった。

「黒田先生、どうしましょう」決済日から1週間後、岡本から電話で連絡があった。決済日の当日、決済を1週間待って欲しいとの連絡が菊地不動産から来た。「絶対大丈夫です」という菊地不動産の社長の言葉を信じて1週間待った後のことである。岡本から菊地不動産に連絡したら、社長当人は電話に出ず、担当者から、社員の1人が何か手違いがあったようでして、とその場を取り繕うような曖昧な物言いに終始して埒が明かないのだという。

「先生の方から、角田弁護士たちに連絡を取っていただけませんか。実は、父が危篤状態でして、今、病院に来ているのです。お願いします」電話なので姿は見えないが、その声から憔悴しきっている岡本の様子が目に浮かぶようだった。数日前、岡本の父の容態が急に悪化したのだという。

「分かりました。できるだけ情報を集めます」

そうはいったものの、黒田としては、事情がどうあれ、決済日に入金がない、それも契約上の決済日から1週間過ぎて。これが全てであった。名目上菊地不動産が支払うべき代金は、このランド・インターナショナルから出るはずのものである。おそらくランド・インターナショナルの方で何かの事情で資金繰りに窮したのであろう。どうすべきか。

売主側は既に所有権移転登記に必要な書類を揃え、決済の確認後、岡本と角田弁護士が買主側指定の司法書士に渡す手筈は整えていた。その旨は買主側に伝えてあった。にもかかわらず、期日に代金が支払われない、つまり決済できなかったということは、菊地不動産との売買契約は、買主の債務不履行として解除されるべきものとなる。角田弁護士に連絡し、売主全員の連名で解除通知をしなければならない。そして、菊地不動産を介したランド・インターナショナルとの取引を解除するなら、次の買い手を探さなければならない。幸い、ランド・インターナショナルとの契約前から買い手を探していたため、既にいくつかの候補について連絡が来ていた。ただ、それらも1ヶ月半前にランド・インターナショナルとの契約が決まったことによって一度断っているので、今でも興味を持ってくれているかどうかは別の話しだ。

とにかく、黒田は角田弁護士に電話をしてみた。まず事務所の方へ。だが、留守だという。角田の携帯にかけてみた。しかし、今は出られないというアナウンスが返ってきた。仕方なく、時間が空いたらコールバックしてくれるように留守電に入れた。今回のランド・インターナショナルとの取引を我々に持ちかけてきたのは角田弁護士である。彼も、今回の債務不履行について情報収集に動いてるのだろう。そうでなくてはならない。

しかし、黒田としては、ただ角田からの連絡を待っているわけにもいかない。次の買い手を探すにしても、まずは契約を解除する必要がある。黒田は、解除の通知をすべきとの提案を角田にメールで送った。そして、ランド・インターナショナルとの契約締結前に買い手の紹介をしてくれた仲介会社の担当者らに、事情を打ち明け、以前に紹介してくれた買い手は今でも買い手の候補となりうるか確認して欲しい旨をメールで伝えた。

その日の夕刻、角田から黒田の携帯に電話があった。菊地不動産の社長が言うには、ランド・インターナショナルの方で資金繰りに問題が生じたものの、まだ、資金の調達に動いているので、2~3日待ってほしいとのことであった。黒田は、2~3日などと曖昧なことでは納得できない。既に1週間待った後である。日限を切って欲しい旨を先方に伝えるように角田に言った。黒田は、菊地不動産にも電話を入れた。担当者はつかまったものの、ランド・インターナショナルからは2~3日待ってほしいと言われていると、角田と同じことを言うだけだった。黒田は同様に日限を切って欲しい旨を担当者に伝えた。

さて、問題は、2~3日待つかどうかである。黒田は、岡本に電話しようと思ったが、病院にいるとのことだったので、電話には出にくいであろうと、岡本の携帯へショートメールで、これまでの角田や菊地不動産とのやり取りを簡潔に知らせ、2~3日待つかどうかを訊ねた。深夜、黒田の携帯へ岡本から、父の側を離れられないこともあり、2~3日であれば待ちたいとショートメールで回答してきた。高齢の父親が危篤状態である上、今回の売買が決済できないというトラブル。黒田は、岡本への同情を禁じ得なかった。

■解除しない?

翌日、黒田の事務所へ、仲介会社から電話があった。かつて紹介した買い手の1件が、もし今回の売買が解除になるようであれば買いたいとの意向を示しているという。価格は、ランド・インターナショナルより1千万円上乗せして4億1000万円という額を示しているという。ただ、いつまでも待てないので、数日中に返答を頂きたいとのことであったという。黒田は、そのことを岡本に伝えようか迷った。通常であれば、すぐに電話なりメールで知らせるのだが、おそらくは父親の臨終に立ち会うことになりそうな岡本に連絡するのが躊躇われた。そんなことを考えながら仕事をしていると、夕方になって、岡本からスマホにショートメールが入った。未明に父親が息を引き取ったという。そして「明日の午前に親族と共に公正証書遺言を確認します。お願いしている土地の持分については、おそらく私に遺贈されているはずです」と記されていた。ただ、黒田としては、相続となった以上、相続税のことが気になっていた。

翌日の午後、岡本から黒田の事務所に電話があった。問題の土地の持分は、遺言によって岡本の相続分として指定されていたという。それはよいのだが、通夜の席で伯母たちに売買契約が債務不履行になっている旨を告げて解除しようと言うと、弁護士さんに頼んでいるので、そのことは弁護士と相談してくれとのことだったそうだ。

「まずは私だけが解除するということはできないのですか?」と岡本が訊いてきた。

「それはできないのです。契約の解除をするのは共有者全員でする必要があるのです。解除するなら、どうしても伯母さま達と一緒に解除する必要があります」

「だとしたら、角田弁護士と話すしかありませんね」

「そうです。ところで、その土地の相続税についてなのですが、もし売買契約を解除しない場合、土地の評価額は4億円の2分の1、岡本さんの持分に応じて評価額は2億円ということになりますが、解除すれば、土地の評価額は相続税路線価となりますので、岡本さんのこの土地に関する相続分の評価額は約1億円程度となって、それだけで相続税額に3000万円近くの差がでます」

「え、そうなのですか?そんなに違いが…」岡本は驚いていた。

「念のため、岡本さんも税理士さんにその辺りを相談してみてください」

「そうします。黒田先生は、解除の段取りをお願いします」

「分かりました。至急、角田弁護士と連絡を取ります」

黒田は、すぐに角田に連絡を取って、翌日の午前、面談することとした。

 

黒田は、角田の事務所を再度訪れた。

「角田先生、決済日の1週間後にも『2~3日待って下さい』と仰ってましたよね。あれから既に4日経っています。先方から私や岡本様には何の連絡もありません。先生の方には連絡がありましたか。決済できるのですか?」黒田は、開口一番訊ねた。

「いや、それが、ランド・インターナショナルからも菊地さんからも、もう少し待ってくれというばかりで、特に菊地さんからは、もしランド・インターナショナルさんがダメなら同額の買い手を探すので、契約は維持したいと」

「ちょっと待って下さい。角田先生はそれでよいのですか?こちらで新たな買主の目処もたっています」そう言って、新たな買主候補の資料を角田の前に出した。

「私としては、解除には賛成しません。せっかく売買契約に漕ぎ着けたのですし、今さら他の者に売るというのは…」角田は、黒田の差し出した資料を手に取ることもなく、そう応じた。

その言葉に、黒田は驚いた。と同時に、やはりな、という気もした。

「どういうことですか? 角田先生は売主の代理人ですよ。買主が債務不履行にあるのに、解除を渋るなんて、売主の代理人としておかしいのでは?」黒田の語気が強くなった。もっとも、それは意識的なものだった。決済予定日の翌日から角田の様子が少し変だとは感じてはいたが、事ここに至って、まだ解除を躊躇うなんて、売主の代理人としてはあり得ないことである。何かある。それを確かめなければならない。

「先生、どうしてですか、代金の決済がなされない売買契約を維持することに売主として、どんな利益があるというのですか?!」黒田は詰め寄る姿勢をみせた。

「いや、菊地さんとは一緒にいろいろと仕事をしているものでして、菊地さんの顔を潰すようなことは、ちょっと…」黒田の詰問口調に、角田はつい口走った。

「ちょっとって、何ですか、先生は売主の代理人でしょう。なのに、買主の利益を優先しようというのですか?おかしくありませんか?」黒田はさらに強い口調にでた。

「そういう物言いは非弁活動になるのでは?」角田は急に目を逸らして、呟いた。

「私のどこが非弁なのですか?私と角田先生は、どちらも同じ土地の共有者の代理人です。そもそも利害が対立する立場にはありませんよ。債務不履行をした買主の肩を持つようなことを言う売主の代理人の方がよっぽどおかしいと思いますが」黒田の目は冷徹に角田を見つめた。

「いや、私も依頼者の利益を考えた上でのことなのですけど…」角田は目を逸らして言った。

「そうなのですか?解除しないことが本当に売主の利益になるのですか?解除して新たな買主に売る方が良いではないですか」黒田は、追い打ちをかける。

「確かに菊地さんはランド・インターナショナルに所有権を移転することを前提とした契約ではありますが、この契約の直接の買主は菊地さんですから、菊地さんが新たな買受先を見つけて決済できるなら、新たに別の売買契約を締結するよりも売主としては早期に現金化できるわけですから」角田は、言い訳がましい言葉を力なく吐いた。

理屈ではそうだけどね、胸の内でそう思いつつ、黒田は返した。

「近々に決済されるならば…ですよね」

「まあ、そうですが…」角田の声は小さくなった。

「菊地不動産には当てがあるのですか?」

「今のところは…」角田の声はますます小さくなった。

「角田先生は、そういう意見だということを岡本さんに報告し、協議させていただきます」黒田は、これ以上ここで議論しても埒が明かないと感じ、話しを打ち切って角田の事務所を辞去した。

■利益相反行為

角田の事務所からの帰途、黒田は菊地不動産に電話をした。上手い具合に担当者が出た。そして、黒田はスマホの通話録音のアプリを起動した。

「あの、今回の御社との共有地の売買については、最初に角田先生からお話しをいただいたのですが、御社は、角田先生とはお付き合いがあるのでしょうか」黒田は、躊躇うことなく単刀直入に訊ねた。

「ええ、角田先生は当社の社長とは懇意で、今までも角田先生から物件についていろいろなお話しを当社には頂いていたようですよ。こちらからもさまざまなお願いをしていたようで。以前、私も、他の取引で角田先生と同席したことがありますよ」担当者は、ごく当たり前のことのようにさらりと答えた。

黒田は、そういうことか、と内心で思ったが、すぐにランド・インターナショナルとの件に話題を移し、どういう状況なのか訊ねた。どうやらランド・インターナショナルは、他の案件でトラブルがあったようで、それで資金繰りが厳しくなったようなことを担当者は話した。

「そうですか。わかりました」黒田は、契約解除のことは口に出すことなく、ごく自然に電話を切った。

角田弁護士は菊地不動産と癒着に近い関係があるのではないか。黒田としては、そう思わざるを得ない。そういうことか…。黒田は冷静になって、何をすべきか考えた。そして、電車の中で、以前、刺し盛りをつつきながら居酒屋で非弁活動の話しをしていた司法書士の大山にショートメールを送った。数回に分けて、角田弁護士とのやりとりや、菊地不動産の担当者から聴いた話しを伝え、最後に「おかしいでしょ?」と付け加えた。

5分もしないうちに返事があった「それはダメでしょ。利益相反行為です。弁護士法や弁護士基本職務規程で禁止されてるはず。売主の代理人なのに買主と継続的な関係があって、そのうえ、買主が債務不履行してるのに買主の利益を配慮して解除を拒否するなんておかし過ぎるよ。場合によっては懲戒ものでは?強気の交渉あるのみ」

「そうだよな、利益相反行為だよな」自分の頭の中でもやもやと考えていたことを他人が文章にしてくれたのを読むと、事態を冷静に飲み込むことができた。

 

売主と買主は、それぞれ高く売りたいと安く買いたいというモチベーションが働くので、それぞれの利益は相反している。だから、民法上、原則として売主・買主双方の代理人にはなれない。代理人は、自分に依頼した本人の利益のために行動すべきであって、もし本人の相手方となる者の利益を図ろうとするならば、それは「利益相反行為」となり、原則として許されないのだ。

しかし、不動産仲介業者は、両手取引もしくは両手仲介といって、売主から物件の買主を探すことを依頼された業者が直接売主を見つけ売買契約が成立すれば、売主と買主の両方から仲介手数料を受け取ることができる。これは、仲介業者が単に売り手や買い手を探して両者を媒介するだけだからだ。角田弁護士は不動産仲介業者に似たようなことを日頃からしており、つい、そちらの商慣習に引きずられ、無意識的に利益相反に関するハードルが低くなってしまっていたのではないだろうか。

ふと、つい30分ほど前の角田とのやり取りで、非弁活動がどうのと言った時の角田の目が泳いでいたことが頭をよぎった。あれはたしか「売主の代理人なのに、買主の利益を優先するなんておかしい」と言った後のことだ。おそらく角田も弁護士である以上、自らのやっていることが利益相反であると意識し、その痛いところを突かれたためであろう。

 

大山にショートメールを書いたせいもあってか、事務所に帰るまでの間に、黒田の方向性が見えてきた。さらに自分の考えをまとめる意味も込めて、黒田は、角田との面談でのやり取り、角田が菊地不動産と以前から取引関係にあったこと、菊地不動産の担当者との電話での会話は録音したこと、さらに、角田が解除を拒否していることは利益相反行為になるかもしれないことを詳細に書いて、岡本へメールを送信した。念のため、角田との面談の顛末についての詳細をメールで送った旨を、岡本の携帯にショートメールで入れておいた。

■違約金

ここまでやって、黒田は、次の手を考えた。落とし所である。考えられるとすれば、違約金か。

すなわち、今回の契約は、一括決済を前提に手付金の条項はなく、代わりに買主側の債務不履行時には1割、すなわち4,000万円の違約金を支払わなければならないことになっていた。角田は違約金による菊地不動産の負担を念頭に解除に反対しているのかもしれない。

岡本としては、とにかくこの契約を解除すれば、おそらくは3000万円程度は相続税を安くできるはずである。それに、新たな買い手が4億1000万円で買ってくれるのであれば、岡本の手元にくる金額は500万円が上乗せされることになる。違約金としては岡本の手に入るのは持分2分の1であるから2,000万円である。しかし、ランド・インターナショナルから資金が出ない以上、菊地不動産が4000万円の違約金を支払うことは難しいだろう。町田市まで足を運び、菊地不動産の事務所を見た限り、それを支払う資力があるとは到底思えなかった。仮に裁判で争って勝訴判決を得たとしても、執行する財産がなければ勝訴判決に全く意味がない。そうであれば、これを免除しても同じである。むしろ、裁判の手間と費用をかけない分の利益があるとすらいえる。

岡本としてみれば、相続税を約3000万円節約できる。新たな買い手の代金から500万円を上乗せすることができる。2000万円の違約金を失ったとしても、差引で1500万円は利益となる。であれば、菊地不動産の違約金を免除することも、解除に応じさせる交渉のためには提案の余地はあると考えた。角田としても、菊地不動産を説得し易くなるのではなかろうか。

それから1時間経つか経たないかのうちに、岡本から電話がかかってきた。

「黒田先生、先生の仰るとおりでした。税理士が言うには、やはり解除しないと相続税が3000万円近く増えるそうです。ですから、私としては、菊地不動産との契約は絶対に解除したいです。それとですね、銀行経由で見つけた新たな買い手は今週中に解除ができるなら、4億2000万円で買うとのことでした。ついさっき私に電話がありました。先生にも連絡がいくはずです。今週中の解除が条件です。早急に解除しなければ」岡本の言葉には力がこもっていた。より良い条件の買い手が見つかったからだ。

「分かりました。今週末だとすると今日は火曜日ですので、週末までには3日しかありません。早急に解除しましょう。ただ、問題は角田弁護士をどう説得するかですが…」

「先生からのメールを読みました。こうなったら、懲戒ですか、弁護士会に申し立てるものだそうですね。銀行から新たに紹介された弁護士に相談しました。当然、私は懲戒の申立ても考えてます」岡本の言葉から、強い憤りが感じられた。

「そうですか。ここは、懲戒も念頭に強気の交渉をすべきところだと思います」

「それでも、角田弁護士がグズグズ言って返答を先延ばしにされると、この買い手も手を引いてしまいます。それは、どうしても避けたいです」岡本が急に冷静になった。黒田には、岡本の真剣さが伝わってきた。

「そこなんですよね。4億2000万円というのは魅力的な額です。これと同等の値段で買ってくれるというところが、さらに出てくるかというと、何ともいえません」

「何か、良い手はありませんか?」岡本は必死だった。

「こちらの譲歩案として考えられるとすれば…」そう言って、黒田は、違約金の免除について岡本に伝えた。そうすれば、菊地不動産も角田弁護士も解除に応じやすくなるのではないかと。

「たしかに、それは一考の余地がありますね。ただ、角田弁護士のやっていることを考えると菊地不動産にそこまで譲歩する必要があるのかどうか。すいません。今晩一晩だけ考えさせてくれませんか?」岡本はそう答えた。角田に強い憤りを感じている岡本が躊躇するのも無理はない。

「わかりました。今日はもう夕方ですし、向こうも議論の真っ最中でしょうし、これから直接電話すると話しがこじれるかもしれないので、明朝、メールでこちらの言い分をしっかりと示した上で、角田弁護士に伝えることにします。その文面は、彼にとって相当キツい文面になると思いますので、明日までにしっかりと文案を練ることにします」

「そうしましょう。返答は木曜日までと期限を切って角田弁護士にメールを出したとすれば、明日は水曜日、あちらとしても、少なくとも丸1日は猶予があることになりますしね。それでも、もし解除を拒否するようなら、私としても、角田弁護士については弁護士会への懲戒の申立てをしますし、菊地不動産については都庁へ相談に行きますよ」菊地不動産の本店は町田市にあるため、宅建業としては東京都に登録している。岡本は、自ら債務不履行しながら、売主側の代理人に働きかけて解除をさせないようにしていることを、都庁へ不当な取引だとして相談に行くというのである。

 

翌日の朝、黒田が事務所に出勤して間もなく岡本から電話があった。違約金の免除は構わないとのことだった。やはり、新たな買い手との契約を逃したくはないという。そして角田との交渉は、万事、黒田に任せるとのことだった。黒田も昨晩のうちに、知り合いの弁護士や、例の司法書士大山らの意見を聞きつつ、角田に出すメールの文案を練りに練っておいた。むろん、それには岡本の意向も盛り込まれていた。

黒田は、再度文面を確認して、角田からの反応を頭の中でシミュレーションをして、それにどう対応するかも考えて、メールソフトの送信ボタンをクリックした。菊地不動産の社長にもショートメールを送った。

■完落ち

角田は、解除を容認した。木曜日の昼過ぎ、合意解除の合意書案をメールで送ってきた。

黒田が角田にメールを送信した水曜日の午後、すぐに角田から電話があり、その日は夜遅くまで電話で角田と連絡を取り合い打ち合わせたのだ。角田の様子からして、おそらく菊地不動産の事務所から電話していたのであろう。

黒田はすぐに角田からの返答を岡本に伝え、共に木曜日の夕刻には角田の事務所に集まった。合意解除の書面には既に菊地不動産の印鑑が捺してあった。そして、伯母たちの代理人としての角田の印鑑も。内容は、メールで送られてきた合意書案のとおりであり、問題はない。岡本も印鑑を捺した。

合意書を受け取り、角田の事務所からの帰り道、黒田はすぐに新たな買い手を紹介した仲介会社に電話を入れ、解除の合意ができた旨を伝えた。

 

2週間後、新たな買い手との売買契約が締結され、代金は契約締結と同時に支払われ、所有権移転登記に必要な書類も買い手側の司法書士に手渡した。黒田と岡本はほっと胸をなで下ろした。

ただ、その契約締結日まで、角田弁護士からは他の買い手についての打診が2度もあった。どうしても自分を通して契約を締結したいのであろうか。黒田や岡本としては、既に買い手は決まりましたし、と答える他なかった。にもかかわらず、角田は、伯母たちの代理人として、新たな買い手との売買契約締結の席に何食わぬ顔で同席していた。

■エピローグ

売買契約を締結した帰途、最寄り駅に向かって、黒田と岡本は一緒に歩いていた。

「角田弁護士、まるで仲介業者のような人でしたね」黒田が半ば呆れたように言った。

「弁護士にもいろいろな人がいますねえ。私の弁護士の紀野さんは仕事が遅くて解任する羽目になるし」岡本は苦笑いしながら応えた。

「そこにきて、買主の債務不履行を前に売主側の弁護士が解除を渋るという」と黒田も苦笑いしながら続けた。

「弁護士に振り回されましたねえ」

「弁護士に振り回されましたねえ」

同時に同じことを口にして、黒田と岡本は互いに顔を見合わせた。一瞬、間を置いて、岡本が言った。

「こういうの、ハッピーアイスクリームと言うらしいですよ」

「ハッピーアイスクリーム?どういう意味なんですか」

「知りません」岡本はしれっと答え、微笑んだ。

こんなユーモアのある人だったんだな。黒田は思った。

 

終わり

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執筆:ノリパー先生

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