地主様向けお役立ち情報

拒絶と妥協(交換)

地主の不動産問題といっても、具体的にはどのようなものかは実際に直面してみないと解らないものです。

そこで当事務所の実務に基づく「地主と不動産鑑定士物語」という短編小説をご用意しました。

登場人物を自分に置き換えていただくなどして、不動産・相続対策において参考になれば幸いです。

≪記事を読むのに約10分かかります≫

【目次】

プロローグ

依頼人

拒絶

妥協案

説得

エピローグ

プロローグ

5月、連休明けのある晴れた日。黒田不動産鑑定事務所の若手不動産鑑定士・栗山が、所長の黒田に向かって不機嫌そうに話していた。

「だいたい言ってる事がお互いに極端なんですよ。一方はどの土地も絶対に売りたくないって言って、もう一方は全部まとめて売却すべきだとか。そんな自分の希望だけを一方的に相手にぶつけてどうしようというんですか」

「まあまあ、相続した土地を売却するかしないかで揉めるのは、和泉さんのとこに限った話しじゃないし、栗山くんもそういうのを見てるだろ」

「それはそうですけど」

栗山が憮然とするのも無理もないか。黒田はそう思わざるを得なかった。事の発端は、1ヶ月半程前の3月下旬、まだ肌寒さが残る日のことだった。

■依頼人

その日、黒田の事務所を訪れた依頼人は、和泉義夫という老人だった。勤めていた大手商社を定年退職し、退職金で千代田区内のマンションを購入し、そこに夫婦で暮らしており、40歳代の息子が2人いるという。依頼の内容は、その和泉義夫氏が姉弟3人で共有する土地等の鑑定であった。

応接室で、和泉から渡された公図を見ながら、黒田は考え込んでいた。隣の栗山は登記情報をめくっていた。それは、赤坂にある6筆の土地であり、その全てを和泉姉弟3人が共有していた。

「私の姉、柳子(りゅうこ)と申しますが、彼女は、30代の頃に夫と離婚して子供たちと共に実家に戻りました。そして、子供たちが自立した後は、私らの両親の面倒を見てきました。そのせいもあって、父は遺言で不動産の全てについて姉に5分の2を遺したのです。まあ、姉弟は3人ですから法定相続では3分の1ずつなのですが、姉が10分の4、私が10分3、妹の康子が10分の3という共有持分になっています。無論、その相続分自体に、私も妹も特に異存は無いのですが、いかんせん共有地です。私ら姉弟3人の共有ならば特に問題はないとは思うのですが、姉は74才。私も今年71になりました。姉弟揃って今はまだ健康ですが、いずれはこの世を去ります。そうなったとき、この土地を相続するのは私らの子供たちです。今でさえ、10分の4、10分3、10分の3という共有持分であるところに、子供たちが相続したら、それがまた細分化されて7人もしくは8人の共有となることもあり得るわけです。ですから、できればこれらの土地を売却したいと思いまして」

「なるほど。ご主旨は概ね理解できました。これらの土地にご親族の方は住んでおられないのですね」黒田が訊ねた。

「はい。ただこのうちの1つの土地には、私たち3人が相続したマンションが建っており、他の土地も全て他人に貸しており、賃料は引退後の私たちの主な収入源になっています」

「底地というやつですね。でしたら、全て売却して現金化するというのも、相続対策として選択肢の1つだと思います」

「そう思いますよね。先生も」和泉義夫が明るい表情になった。

「はい。でも、これらの土地の売却価格といっても、底地ですと、借地人に売却する場合や、そうではない第三者に売却する場合では、想定される価格も異なってきますが?」

「いや、今すぐに売却というわけではありません。まずは、それぞれの底地の価格、私らが所有するマンションも同時に売却する予定ですので、その建物についての鑑定をお願いしたいと」

「承りました。ただ、6筆と1棟ともなると少々お時間をいただきたいと思います。そうですねえ、概ね1ヶ月くらい。できましたら、ご連絡いたします」

「そうですか。よろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ」

「あともう1つ、お願いがあるのですが?」

「と、申しますと」

「鑑定価格が出たら、それを私の姉にも説明していただけませんでしょうか?」

「はい。それは構いません。お姉さまも売却するわけですから、当然、価格等は知っておくべきですし」そう言いつつ、黒田は少し引っかかるものを感じた。

「はい。ただ、その時は姉の自宅でお願いしたいのですが」

「ご自宅で?」

「はい。お願いします。むろんお時間を取らせますので、その日当も当然お支払いいたします」

「わかりました」黒田は承諾した。

 

和泉義夫が帰った後、栗山が言った。

「これであの土地の売却の仲介もできたら良いですね」黒田の事務所は、宅地建物取引業者の免許も持っていたので、不動産売買の仲介をすることもできた。

「あれだけの土地ですから、底地だけでも数億はしますよね。もし2億なら手数料は600万ですもんね」栗山の声は、心なしか弾んでいた。

「うーん。そう簡単にいくかなぁ」黒田が不安そうな顔をした。

「何か、問題でも?」

「いやね。もしかしたら、土地の売却の件、お姉さんは納得していないのではないかと、ね」

「あ。だから、鑑定価格をお姉さんに説明して欲しいなんて」

「うん。まあ、そういうこともありうるなと。いや、取り越し苦労ならいいんだけどね」

■拒絶

そして4月の下旬、鑑定結果が出た。その内容をすぐに和泉義夫氏に報告した。彼は満足した様子だった。姉の柳子に会いに行くのは連休後ということになった。

彼女は、件の土地のすぐ近くにあるマンションに住んでいた。連休が明けるとすぐ、黒田と栗山は、和泉義夫に伴われ、そこへ向かった。

マンションの入り口でインターフォンの番号を押すと、女性の声がして、和泉義夫が来訪の旨を伝えると、自動ドアが開いた。広いロビーからエレベーターで5階へと向かった。

エレベーターを降りると目の前の部屋のドアが開いて、中から女性の顔が覗いた。

「あ、康子」

「遅かったわね」

「こちら、今回の鑑定をしていただいた黒田先生と栗山さん。彼女は、妹の康子です」黒田たちは、康子と軽く会釈を交わした。

黒田らは応接室と思しき部屋に通された。そこには既に、品の良い着物姿の老女が腰を下ろしていた。ただ、その表情は心なしか険しいものを感じさせるものだった。

「いらっしゃいませ」老女が立ち上げると、丁寧にお辞儀をした。すぐにお茶をもって康子が部屋に入ってきた。

「姉の柳子です」義夫が紹介する。黒田たちは2人に名刺を差し出し、挨拶を交わすとソファに腰を下ろした。

「それで、義夫、赤坂の土地のことでお話しとは?わざわざ不動産鑑定士の先生方までお呼びして」柳子の口調にはややとげとげしいものが感じられた。

「あそこの土地、父さんから相続した土地。姉さんたちと共有だろ」

「そうね」

「僕たちも70を越したし、そろそろ終活というか、相続のことを考えていいころかと」

「あら、私はまだ70前よ」柳子のとなりに座っている妹の康子が口を挟んだ。

「だとしても、相続のことを考えてもいい頃合いなのは、俺たちとそう変わらないだろ」

「康子ちゃんは黙ってて」柳子が言った。言われた康子は、そうした姉の物言いに慣れているのか、顔色ひとつ変えずに大人しく口をつぐんだ。

「で?」柳子は、義夫に話の先を促した。

「だからさ、あの土地が私らの共有のままだと、僕らの子らが相続したときには、さらに共有者の人数が増えるんだよ。場合によっては、姉さんや康子と僕の妻で共有することもありうるわけだ。僕たちは姉弟だから、こうやって子供の頃から話しもしてきたけど、子供たちは従兄弟同士ということになるので、僕らのようにはいかないよ。さっきも言ったように、僕が妻より先に死ねば、僕の妻も共有者になるし、康子の夫と共有になる可能性もある。そうなってくると俺たちみたいにうまく土地からの収入を分け合うのも難しくなるかもしれない」

「だから、どうしたいの?」柳子の言葉が鋭くなってきた。

「だから、売却しよう」義夫は意を決したよう言った。

「イヤよ」間髪を入れずに柳子は答えた。

「そういうと思ったよ。だから、こうして鑑定士の先生にも来て貰ったんだ」

柳子の厳しい目が黒田たちの方へ向けられた。

「そうですか。せっかくおいでいただいたのですから、先生方のお話を伺いましょう」

「それでは・・・」柳子に促されて、黒田は、6筆の土地とマンションの立地や、価格に影響を与える事情などをできるだけ解り易く話し始めた。栗山が必要に応じて地図や説明のための資料を柳子の前に差し出し、それぞれの底地の価格を説明した。

「結果としてマンションとその敷地を一緒に売却する101番地の2が最も良い価格となります。もっとも、他の土地も底地価格ですが、住んでいる方々に立ち退いてもらい、数筆を一括して売却するということにでもなれば、より高く売れることは間違いありません。相応の立退料を支払ったとしても、その方がお手元に残る額はより多くなるかと思われます。仮にこの99番地の2と100番地を・・・」

「解りました。あの土地が高く売れるというのは解りました。でも、今のこの土地からの収入のお陰で、私もあなたたちも生活に困らないでいられるのよ。だったら、今のままでも構わないでしょ。私らが死んだ後に子供らがこの土地をどうしようかは、子供たちが自分らで決めればよいこと。そして今は、私らが決めればよいこと。そして、私は売りません」きっぱりと言い切った。話しの腰を折られた形になった黒田たちも、その見事といっても良い毅然とした物言いに返す言葉がなかった。部屋に沈黙が流れた。

「いや、でもさ、姉さん」おそるおそるという風に義夫が口を開いた。

「義夫、あなたが若い頃から株の取引を趣味にしていたのは知っていますよ。昔から、上がったの下がったのと、喜んだり悔しがったり。それはそれで楽しかったでしょう。そして、今では不動産も買っているようね。拝島のマンションを買って転売して儲かったそうじゃないの?」

「え、なんでそれを?」義夫が眉をしかめた。

「人の口に戸は立てられないものよ」そう言う柳子の横で、康子が義夫の方を見ながら首を振っていた。

「幸一郎かあ」義夫が呟いた。幸一郎とは義夫の息子の名である。

「そんなことはどうでもいいでしょう。相続のために現金化した方が良いというのは確かに一理あるのでしょう。だから、この先生方もあなたの話しを聞いて、こうしてしっかりとした鑑定をして下さった。でも、あなた、その売却資金でもっと不動産投資をしたいんじゃないの?」

「そんなことはないよ」義夫は強い口調で否定した。

「まあ、そんなことはどうでもいいわ。とにかく、私は売りません」

「どうして?!」今度は義夫が強い口調になった。

柳子が背筋を伸ばして、厳しい表情になった。

「あの土地は、今でこそ私たちが住んでいる訳ではありませんが、私たち和泉家にとってはとても大切な土地なの。和泉家は、徳川家康公がまだ三河国の小さな大名にすぎなかった頃から家康公第一の功臣である酒井左衛門尉忠次様にごひいきにしていただいた商家。私たちのご先祖、和泉の家はそれがご縁となって、以来、浜松、駿府、そして江戸と、常に徳川様に従って移り住み、その時々、酒井様、徳川様の御用を務めていた商家なのですよ。屋号は泉水屋。江戸に移ってきたときは今の市ヶ谷にお屋敷を賜って、江戸でも商いを続けたのよ。越後屋に務めていたというのに、そんなことすら忘れていたの、義夫」

「越後屋って、いつの時代の話しだよ」半ば呆れたように呟いた。義夫の務めていた大手商社の前身はかつて越後屋を屋号としていた。

「そうね。時代は変わったわ。御一新の後、お殿様から下げ渡されたのがあの土地なのです。あそこは、私たち和泉家の歩んだ歴史の結果として今、私たちが持っている土地なのです。そう容易く手放せるものではありません。少なくとも私の目が黒いうちは嫌です。あの土地を売ることはできません」

「そんな昔のことを今さら言っても仕方ないだろう。僕だってその話は親父から聞いたことあるよ。でも、あの土地で造り酒屋を営んでたというのは戦前だろう。姉さんは、その頃のうちでつくっていた酒の名前を今でも商標登録して持ってるんだって?」

「そうよ。”継泉”という銘柄よ。泉を継ぐ。そういう意味よ。これは、私がお父さんから貰ったの。こんなものを持っていてもとお父さんは笑ってましたけどね。でも、土地は違うわ。今でも私たちの生活を支えてくれる」

「現金だって、生活を支えてくれるよ」義夫はもはやすがるような物言いになっていた。

「でしたら、あの、6筆全部売らなくても…」そう栗山が言いかけた時、黒田はそっと制した。

「どの土地も売りません。売りたいのなら、義夫、康子、あなた方の持分だけを売りなさいな」

柳子の横で小さくなっていた康子が、いきなり自分の名が柳子から出たせいか、ぴくっとした。

「共有持分だけで処分することが難しいことは、さっき黒田先生が話してくれたじゃないか。康子だって売ることには賛成してくれてる」

「康子、そうなの?」

「え、ええ。どちらかと言うと、売った方が…」康子が申し訳なさそうに小声で答えた。

「そう。だったら、私のを売るのは私が死んだ後に、私の息子たちを説得なさい。でも、何度も言いますけど、私の目の黒いうちは絶対に売りません。あの土地を売りたかったら、まずはあなた方が私より長生きすることね」

しばらく押し問答が続いたが、結局、その日はそのまま物別れに終わった。

 

黒田たちは、義夫と一緒に柳子のマンションを出た。道すがら「お見苦しいところをお目にかけました」義夫が申し訳なさそうに言った。

「いえ、こちらこそお力になれず」黒田は答えた。

「何となく解っていたのです。姉は、父と長く一緒に暮らしてきましたし、歴史が好きでして。大学も史学科を出たくらいです。昔はうちにも家系図とかいろいろ古い文献があったようなのですが、父が子供の頃、空襲で焼けてしまったようで。姉の話していたこともどこまで本当なのか、今となっては」義夫が苦笑いした。

「で、どうなさるおつもりなのですか」栗山が義夫に訊ねた。

「そうですねぇ。何か良い説得方法はないものでしょうか」姉との押し問答に疲れたのか、力のない物言いだった。

栗山がちらっと黒田へアイコンタクトを送った。

「考えてみます」黒田が義夫に答えた。

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

■妥協案

事務所に戻るなり、栗山が憤懣やるかたないという様子で話し始めた。

「それにしても、お姉さんは売らないの一点張りで、義夫さんは売ろうと言うだけ。1つの土地じゃないんですよ。6筆もあるんですよ。何も全部を一度に売らなくてもいいんですよ。だいたい言ってる事がお互いに極端なんですよ。一方はどの土地も絶対に売りたくないって言って、もう一方は全部まとめて売却すべきだとか。そんな自分の希望だけを一方的に相手にぶつけてどうしようというんですか」

「まあまあ、相続した土地を売却するかしないかで揉めるのは、和泉さんのとこに限った話しじゃないし、栗山くんもそういうのを見てるだろ」

「それはそうですけど」

「ですけど?」黒田は、先を促した。

「いや、最近、SNSとかでもよくあるじゃないですか。お互いに極端なことを言い合って全く話しが噛み合わないから、結局罵り合いにしかならない。世の中、そんな簡単に白か黒かで決められれば苦労しませんよ。話し合いってのは、その妥協点を探すことでしょう。さっきも言ったけど、6筆全部を一度に売らなくてもいいんだから。なのに、お互い売る売らないの一点張り。妥協点どころではないですよ」

「そう、妥協点だよね」黒田が頷いた。

「全部売ることはないんですよ」そう言いながら、栗山が自分のカバンから書類を取り出した。

黒田は、栗山の差し出した書類を受け取った。6筆の土地の図面だ。土地に矢印が書き込まれ、マンションとその敷地は「売却」と、通りに面した2筆に「柳子」の名が、路地の奥にある2筆の土地に「義夫・康子」の名が書き込まれ、中央部の1筆には「親族間売買」と書かれていた。

「例の等価交換と親族間売買だね」

「ええ。先生にも事前に伝えておいたのに、提案しようとしたら止めるし」栗山の不満はそこにあったのだ。

「いや、妙案も提案するタイミングがあるから」

「ですよねえ」

あの雰囲気の中で等価交換の話しを持ち出しても、どちらも満足に話しを聞いてくれなかったであろうということは、今になると栗山にも理解できた。

「まあ、そのプランを義夫さんには事前に話しておくことも考えたのだけど、彼の意向は売却だったからね。お姉さんの方が納得してるのかどうかもよく解らなかったし。まずは、お客さまの希望どおりの提案はさせてもらわないと」

黒田と栗山は、共有地相続の対応として、売却以外の解決策として「等価交換」と「親族間売買」によるプランを事前に用意していたのだ。

「等価交換」とは、今回のように同じ人が共有する複数の土地がある場合──相続によってこうした形の共有地が生じる事は往々にしてあることだが──例えば、甲地と乙地をAとBの2人が共有していたとして、甲地のAの持分と乙地のBの持分を交換して、甲地をBの単独所有に、乙地をAの単独所有とするといった手法だ。

とはいえ、姉弟の持分が常に等価で交換できるとは限らない。そうした場合には差分を金銭で補い、交換する共有持分を等価にして交換するのだが、この和泉家の事案では、2筆ずつの土地、計4筆の土地ではほぼ等価での交換が可能であったが、売却予定のマンションが建つ土地を除いた、もう1つの土地は、どちらかに共有持分を買い取ってもらわねばならない。そして、それは親族間での取引となる。これが「親族間売買」だ。

「親族間売買」に法律上は特段の規制があるわけではない。しかし、相続税を逃れる方法として、生前に安く親族に不動産を売却するようなことが行われやすい。そこで、親族間売買においては、鑑定価格に比べて安い価格での売買とされると、税務署からあるべき価格と当該安価な価格との差額につき贈与税が課される恐れがある。そこで、親族間が売買する際は、原則として鑑定評価額によるべきものとなる。

栗山の用意したプランは、6筆の土地のうちマンションがある土地以外の5筆のうち4筆の持分をそれぞれ交換して、2筆の土地を姉・柳子の単独所有に、2筆の土地を義夫と康子の共有とすることを前提とするプランだった。これらは、鑑定の結果、ほぼ等価で交換できる。ただ、マンションとその敷地と他の残る1筆では、うまく等価交換はできない。そこで、マンションと敷地は第三者に売却するとして、残る1筆は、姉の柳子か、義夫・康子の兄妹が他方の持分を買い取ることになる。そこが「親族間売買」となるのだ。どちらが買い取るかは、和泉姉弟に決めてもらうしかない。

このプランであれば、全ての土地ではないが、あの土地にこだわりを持つ柳子は少なくとも2筆の土地を所有し続けることができる。他方、売却を望む義夫と康子は2人の共有となった土地を共同で土地を売却すればよい。売却するマンションは3人の共有のままであるが、これについては、借地人に退去してもらい更地として売却するも良し、借地人に底地を買い取ってもらうも良し。とはいえ、いずれにしろ、一部の土地を手放すという意味では、姉・柳子に納得してもらう必要があることに変わりはない。

「もう少し、この等価交換のプランを練ってみようか」黒田が言った。

「そうですね。このプランでも土地の一部は事実上手放す訳ですから、できるだけお姉さんに納得できるプランにする必要がありそうですね」

「と言ってもなあ。どの土地を所有することが彼女にとって最も良いか」

「あ、そうだ。良い考えがあります。うちに江戸時代の古地図とかありませんでしたか?」

「都内の古地図なら何枚かあるけど、欲しいのはあの場所のだろ。あるかなぁ」黒田が自信無さそうに答えた。

■説得

数日後、栗山が神田の古書店街で手に入れてきた古地図を元に、等価交換のプランに修正を加え、その内容をメールで義夫に伝えた。すると、さっそく義夫から電話がかかってきた。

「私としては、これで全く問題ありません。持分を買い取るのは、私たちで構いません。こちらがお願いする立場なので、姉に出費を強いるのは気が引けます。むろん、姉がその土地をどうしても欲しいというのであれば、話しは別ですが。ただ、全ての土地を手放す訳ではないものの、姉さんが納得してくれるかどうか。それだけが心配です」電話の向こうから義夫が言う。

「はい。このプランでは、そちら様が土地を売却することを考えている以上、それらの土地がお姉さまの、というか、和泉様の家のものではなくなる訳ですから、お姉さまには若干の譲歩をしていただくことになるので…」

「解ります…」電話の向こうで義夫が考え込んでいるようだった。

「ところで先生からのご提案では、マンションとその敷地についてですが・・・」

「ええ、はい」と頷く黒田を栗山は眺めていた。何か提案を受けているようだ。

「そうですか、解りました。その方向で。はい。では、お姉さまには、私どもからご説明させていただきます。お姉さまへのご連絡の方はよろしくお願いします」黒田は、受話器を置いた。

 

和泉柳子を訪問してから10日程経ったころ、黒田と栗山は、柳子のマンションを再訪した。今回、義夫は同行しなかった。黒田たちだけで説明して欲しいと頼まれたのである。

「今日は義夫は来ないのですね。先生方だけですか。ご用件は、この前と同じですか。そのようでしたら、お返事に変わりはありませんよ」

前回と同じ応接室に通された後、柳子の方から切り出してきた。相変わらず厳しい表情だった。

「はい。ですが、全く同じというわけではありません。どうか、こちらをご覧下さい」黒田がそう言うと、栗山が資料を柳子の前に差し出した。そして、等価交換のプランについて栗山が説明を始めた。和泉姉弟の共有持分を交換し、柳子の単独所有の土地と、義夫・康子の共有地に分ける等価交換について、ゆっくりと、説明のための図を何枚も出しながら、丁寧に説明していった。親族間売買の対象となる土地については、柳子の持分を義夫と康子で買い取る方向で伝えた。柳子は、真剣な眼差しで説明を聞き入っていた。

 

「…ということになります。そして、これらの土地は柳子様の単独所有となりますので、この土地を保有し続けることができます。他方、義夫様は、こちらの土地を康子様と共有することになります」

「そうですか。だいたい内容は解りました。この土地を持ち続けたいという私の希望を叶えつつ、義夫たちの売却したいという要望にも沿ったものということですね。いわゆる妥協案ですか」

「はい」黒田と栗山が一緒に答えた。

「そして、こちらをご覧下さい。これは文化・文政の頃の古地図と思われます」栗山は、古書店で受けた説明を繰り返しながら古地図を広げた。柳子がそれをのぞき込んだ。そして、古地図に書かれた文字を指差し、じっとそこを見つめると、おもむろに席を立った。

栗山と黒田は、何事かと思った。

「どうしたんでしょう?」栗山が不安そうに訊ねた。

「なんだろう?」黒田もそう答える他なかった。

しばらくすると、分厚い書籍をもって柳子が戻ってきた。そして、その書籍をめくりながら、柳子が話し出した。

「この古地図のここに辛巳(かのとみ)という文字があります。”しんい“と言った方が解りやすいかしら。これはたぶん辛巳の年ということでしょう。そうだとすれば、文政4年、西暦にすれば1821年ですね。その頃、文化・文政年間は化政文化といって町人文化が栄えた時代で、東洲斎写楽や東海道中膝栗毛で有名な十返舎一九が活躍していた頃よ。その当時の地図らしいわね。でもこの紙質からして、きっと複製品ね」

「大学の史学科をお出になられているとは伺いましたが、お詳しいですね」栗山が感心して言った。

「これでも、結婚前は高校で教師をしていましたので」柳子が恥ずかしそうに答えた。これまで見せたことのない柔和な表情だった。栗山は安心して話しを続けた。

「それでですね。おそらくこの古地図によると、この辺りがこれらの土地、100番地と101番地がその場所のあたると思われるのです。そして、酒井家のお屋敷があったのがここ。この古地図から正確な位置までは解りかねますが、おそらくは、柳子様の単独所有としてご提案させていただいた土地がここにあたるのではないかと」

「そうね。関東大震災や戦争でいろいろあったかもしれないけど、通りがそれほど大きく違っていないとすれば、きっとそうね」

「ふふ、私に気を使ってくれたのね」柳子は、笑顔でそう付け加えた。

「ところで、等価交換の対象となっていない、こちらの土地についてですが」栗山が言いかけると、すかさず柳子が答えた。

「そういうことでしたら、等価交換でこの土地については、義夫たちが買い取っても構いません」と付け加えた。その顔に黒田と栗山はホッとした。

「それとですね。義夫様が仰るには、この、ご姉弟で共有されているマンションと土地は、しばらくこのままにしておこう、とのことでした。ここからの収入は、お姉さんの生活費にとっても大切だろうし、とも仰っていました」そう黒田が告げた。

「そう。共有のままでいいというのね。あの子が…」そう小さく呟く柳子の目が潤んでいるようだった。

柳子は目に手をあてて涙を拭うかような仕草をしてから、恥ずかしそうに黒田と栗山の方へ顔を向けた。

「解りました。これでけっこうです。この段取りで進めて下さい。そう義夫に伝えてください」柳子が静かに言った。

等価交換の作業や持分買取の決済等については義夫さんたちとも相談して段取りを決めることとして、黒田らは柳子のマンションを辞去した。

■エピローグ

「それにしても先生、あのマンションをそのままにしておこうという提案がまるでダメ押しになったかのように、柳子さん、少し涙ぐんでいませんでしたか」帰りの地下鉄の中で、栗山が訊ねた。

「ああ、そうかも。義夫さんが言うには、共有地を全部売ってしまうのは、どこか姉弟の縁を切ろうと言ってるように思われたのではないか、と言うんだよ。無論、あの人にそういう意図はなかったのだけど、もしかしたら、柳子さんにはそう思われたのかも、とね」

「なるほど。寂しい思いもしてたんですね。思えば、義夫さんや康子さんは、それぞれ奥さんや旦那さんがいらっしゃるのに対して、柳子さんは、お子さんたちも独立なさったので、1人暮らしのようにみえましたしね」

「そうかあ」少し間をおいて、栗山は感慨深そうな表情で呟いた。

地下鉄が事務所の最寄り駅に着き、2人は改札を出た。

「そうだ、栗山くん。お姉さんが納得してくれたことは、私から義夫さんたちに報告しておくから、君は、等価交換のための契約書などの準備をよろしく頼むよ」地上に向かう階段を上りながら、黒田が言った。

「ですね。でも、今日の説明は緊張して疲れましたよ」

「そうだろうね。もう16時を過ぎてるし、それよりも、お屋敷が建っていたと思われる場所を古地図で探して、そこをお姉さんの単独所有にしようという栗山くんのアイディアもなかなかのものだったよ。今日はこのまま帰って、明日からでいいよ」

黒田がそう言うと同時に、階段を上りきった。5月の温かい午後の日差しが2人を包んだ。

「いや、事務所に戻って、準備だけはしておきますよ」

「そうか、よろしく頼むよ」

2人は眩しそうに言葉を交わした。

 

終わり

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執筆:ノリパー先生

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