地主様向けお役立ち情報

受け継ぐもの(前編)

地主と不動産鑑定士の物語を連載します。
不動産をめぐる相続のよくあるトラブルの一例として、参考になれば幸いです。

 

■プロローグ

秋の長雨か、窓の外は小雨が降る10月の昼下がり。日本橋の雑居ビルの3階にある黒田不動産鑑定事務所。

「栗山くん、午後イチでお客さんが来るから、早く弁当を食べなよ。かなり大口の仕事になりそうだ」

「は、はい」所長の黒田に急かされた助手の栗山は、コンビニ弁当の最後のおかずを口に入れた。食べ終わった後始末をして、栗山が席にもどると、ピンポーンとインターフォンが鳴った。「はい」とすぐに事務を担当している女性が応えた。

「え、はや」慌てる栗山をみて、黒田がにやにやと笑っていた。

「先生、お客様がお見えです」

「はい」黒田が立ち上がった。栗山は慌てて口周りをティッシュで拭き、立ち上がって身だしなみを整えた。

 

■都内6,000㎡の土地の相続

応接間。黒田と栗山は、依頼人と挨拶を交わすと、テーブルを挟んで、依頼人と向かい合った。依頼人の名は中川剛男、32才。大手メーカーに勤務しているという。

「お電話では、新宿区内に6,000㎡にも及ぶ土地をお持ちとのお話しでしたが、具体的にはどのようなご相談でしょうか」黒田が、依頼人の中川に水を向けた。

「はい」と、中川は、書類の束をカバンから出し、その中から一枚を抜きだし、黒田たちの方へ差し出した。

「こちらをご覧ください。これら10筆の土地を、私の祖母と母が所有しています。持分は、祖母が3分の2、母が3分の1です。どの土地も同じ持分で共有しています」

黒田たちは、書類を取り見ている。依頼人の中川は、そのまま説明を続けた。

「これは、祖父が所有していた土地を、祖父の妻つまり私の祖母と、祖父の子つまり私の父が、持分3分に2と3分の1で相続し、亡くなった私の父がその持分を全て母に相続させたのです」

「なるほど」黒田が、渡された資料を凝視しながら応えた。

「10筆の土地のうち、Cの土地は駐車場、Iの土地は更地で、他の土地は全て貸宅地です。そして、この最も広いJ地は約2,200㎡あって、そこに建つメゾンドグラン東早稲田に私も住んでいます」そう言いながら、中川は、高級マンション・メゾンドグラン東早稲田のパンフレットも差し出した。

「ほお。これは大手デベロッパーの開発したものですね」

「そうです。ただ、土地は先ほど申しましたとおり、祖母と母の共有です」

「ふーむ。これだけ多くの土地が共有関係となると、万が一、相続が発生した場合には、いろいろと大変そうですね」黒田が言った。

「そうなのです。祖母は、既に87才とかなりの高齢で、足腰も年相応に多少弱ってはいますが、たいへん我の強い人で、週に数度は散歩に出たりしています。本人は100まで生きるよ、と言っています」中川は、少し嬉しそうな顔をしながら話を続けた。

「ですが、先日、終活はしなくては、と言いだしまして、自分の書いた遺言について話をしてくれました。この10筆の土地全てを私に相続させるというのです。相続税もそれなりの額になるだろうけど、そのくらいの現金も遺してあると」

「遺言をされたのですか」黒田が問うた。

「そういう内容の遺言を公正証書で書いたそうです」

「公正証書遺言ですか。それは、遺言としては安全確実ですね」栗山が頷きながら言った。

「そうなのです。遺言として安全で確実なのはよいのですが、中身を見せてはもらえませんでした」

「原本は公証役場が保管しますからね」栗山が応えた。

「はい。なのに、遺言の内容について、それ以上、詳しいことは話してくれません。そして、私に、それだけの土地を相続するのだから、その心構えはしっかりと持っていなさい、と言うのです。私が、心構えとは何ですか?と訊いても、男ならそのくらいの事は自分で考えなさい、とだけ」

「お祖母さまが話されたのは、こちらの10筆の土地を中川さまが相続されるということだけなのですか」黒田が問うた。

「そうなのです」

「ふーむ」黒田も栗山も考え込んでしまった。

 

■遺留分

「そこで、私もいろいろと考えました。そして、思い当たったのは、3人の叔母たちのことです。3人の叔母たちは、亡くなった父の妹ですから、当然、祖母の相続人になります。ですから、叔母たちには遺留分があります。私は、亡くなった父の代襲相続人となるわけですから、祖母の遺産についての法定相続分としては、私と叔母たちで4分の1ずつということになります。そして、この10筆の土地全てと、それを相続するための現金を私が相続するということは、どう考えても、叔母たちの遺留分を侵害していることは明らかなのです」

「そうか、遺留分か・・・」栗山がそう呟くと、続けて、黒田が発言した。

「遺留分は法定相続分の2分の1ですので、中川さまの叔母さま方3人には、遺産総額の8分の3の遺留分があるわけですね。かつては、遺留分侵害請求権を行使されると、いわゆる物権的効果として、不動産については遺留分権利者とその相手方の間に共有関係が生じてしまうというものでしたが、今では、そうしたこともなくなり、遺留分を侵害している額の支払い、つまり金銭の支払いができるようになりましたからね。その点はいいのですが、要は、その遺留分の額ですね?」

「そうです。そこで、まずお願いしたいのは、遺留分率を基礎になる遺産総額を把握するために、この10筆の土地の実勢価格をできる限り詳細に鑑定していただきたいのです」

 

■依頼人の要望

「解りました」黒田は即座に答え、さらに続けた。

「しかし、遺留分額を把握するというのであれば、遺産総額の把握が必要です。この土地以外にも、不動産やその他の資産があるとすると、それも考慮しなければなりませんが?」そう、黒田が問いかけると、中川は、差し出した書類の下の方から数枚を取り出した。

「こちらが墨田区内にある物件で、祖母はそこに叔母の1人と一緒に住んでいます。名義は、同じく祖母と母の共有になっています。ざっとした概算ですが、この東早稲田の物件が概ね8億3,000万円超で、墨田の方は2億2,000万円程です。そして、預貯金や祖父が遺した有価証券等はこの程度はあるかと」

「ふむ。遺産総額は概ね12億超ですか」黒田は冷静にその数字を口にしたが、栗山は少し驚いたような顔をしていた。

「でも、なぜ、今回は、この東早稲田の10筆の土地だけなのですか?」黒田は訊ねた。

「そこなのですが、もう1つ、お願いがあります。実は、私としては、これらの東早稲田の土地のうち、このJ地、つまり、私が住んでいるメゾンドグラン東早稲田の土地だけは、どうしても確保したいのです。叔母たちと共有になったりすると、いずれは従姉妹たちとの共有となり、叔母の1人とは若干疎遠になっていることもありますし、いろいろと諍いの原因になる可能性があります。このJ地については、そうしたことを避けたいのです」中川の表情は真剣だった。

「これだけの規模の立派なマンションが建っているということは、それ相応の地代でしょうから、J地の確保をまず検討するのは、当然の選択だと思います」

「むろん、それもありますが、このマンションは祖父が晩年に建てたものなのです。もともとはデベロッパーからの申し出だったそうですが、祖父も祖父なりにいろいろと考えて建てることを決めたと聞いています。父と祖父が、そのことについて真剣に話し合っているのを今でも覚えています。残念ながら、父は、このマンションに転居して間もなく亡くなってしまいましたが、そんなこともあって、なんとなく父と祖父が遺してくれたような気もしまして。そこで、東早稲田の物件については特に詳細な実勢価格を把握した上で、J地の確保の方策についてご相談したいのです」

「承知しました。J地を確保するための方策を私どもで検討させていただきます」

「よろしくお願いします」

 

■栗山の奮闘

中川をエレベーターまで見送った後、自席に戻ろうとする栗山に黒田は手招きして、再び応接室に入り、今度は向かい合って椅子に座った。

「中川さんからは、基本的に2つの依頼を受けたわけだ」

黒田が口火を切ると、栗山はすぐに応えた。

「10筆の土地の鑑定と、J地確保のためのコンサルですね」

「そう。それで、10筆の土地の鑑定は私がやるとして、栗山くん、コンサルの方は君に任せたいと思う」

「え」栗山は、明らかに動揺していた。

「僕は、鑑定士として不動産価格の鑑定はこれまでも先生のおかげで、経験も積ませてもらいましたが、コンサルはちょっと。正直、自信がありません」

「ほら、先生はよしてくれ、と言ってるのに」黒田は苦笑いした。栗山は、不動産鑑定士の試験に合格する前から、黒田の事務所に事務員として勤め始めたこともあり、その当時の癖がでたのである。黒田は、試験合格後は鑑定士になったのだから「先生」は止め、普段は「所長」と呼ぶように言っていたのだ。

「それに、コンサルはちょっと、とはなんだ。これまで何件もコンサルを、私と一緒にやってきただろう。基本的なことは、関係法令などについても解っているだろう?」

黒田の言葉は徐々に厳しい口調になっていった。うろたえる栗山に構わず、黒田は続けた。

「私と一緒に仕事をしてきて、一体、何を見ていたんだ、君は。今回の中川さんの依頼もそうだけど、単に不動産価格の鑑定をするだけでは、お客さんの希望に添うことなんてできないんだよ。不動産価格の鑑定をしようという人にはそれぞれの事情がある。それを汲み取って、課題を解きほぐすのも仕事なんだよ」

栗山にしてみれば、今更言われなくても解っている。しかし、いざ、自分でコンサルのためのプランニングをすることを命じられると、つい怖じ気づいてしまったのが、自分でも解っていた。

栗山が黙っていると、黒田は、少し表情を和らげながら、さらに言った。

「コンサルができるようにならなければ、私のところにいる意味は少ないだろう。それは、君も解っているだろう」

「はい」意を決したように、栗山はうなずいた。

「そんなに怖い顔しなくてもいいよ。もちろん、私も相談には乗るから」黒田が笑いかけた。

「頑張ります」栗山は、力強く答えた。

 

その日の夕方、黒田鑑定事務所の者が徐々に帰り出した頃。黒田も、机の上の書類を片付け始めた。しかし、栗山は、そんな周りの様子に目もくれず、六法を広げて一生懸命にメモを取っていた。そして、メモを見ながら、PCのキーボードを叩く。

「栗山くん、そんなに根を詰めるなよ」

「はい。依頼の内容を理解して、まだ追加で中川さんに尋ねなければならないことを整理しているんですが、もう少しで一区切り付きますので」

「そうか。じゃ、お先に」黒田は、カバンを肩に下げると、事務所を後にした。

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